カスティーリャ王国統一
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「カスティーリャ王国」の記事における「カスティーリャ王国統一」の解説
カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲラとレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年に母から王位を譲られカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年にレオン王位も継承した。レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国が分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる。 1236年にコルドバの攻略に成功、1246年にはナスル朝を臣従させる。1248年のセビリア攻略には、ナスル朝からも兵を拠出させ、長期戦の末に陥落させた。こうして、イベリア半島のイスラム国はナスル朝グラナダ王国のみとなった。 フェルナンド3世の後を継いだアルフォンソ10世は、カスティーリャとレオンで異なっている政治制度、法律、通貨、税制、度量衡などの統一にとりかかり、ローマ法を元に『七部法典』を編纂した。首都トレドではトレド翻訳学派(スペイン語版、英語版)と呼ばれる学者集団の努力やアルフォンソ10世の支援でアラビア語で書かれた医学、数学、天文学の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにもたらされた。 アルフォンソ11世は『七部法典』を実施に移した。グラナダ王国は、アフリカのマリーン朝と提携してカスティーリャ王国に対抗していたが、1340年のサラードの戦いでカスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝にイベリア半島から手を引かせ、グラナダ王国を孤立化させた。しかし、グラナダを攻略することはできなかった。1343年にカタルーニャに上陸したペストは、翌年カスティーリャでも猛威を振るい、全人口の2割近くが死亡した。また、王権強化を目指す王は下級貴族を登用し、有力貴族を押さえようとするが、既得権を守りたい有力貴族は反発し、王位継承権をめぐる争いに発展する。ペドロ1世と庶子であるエンリケ2世の王位継承権争いは、アラゴン、グラナダ、さらには、百年戦争中のフランスとイングランドの介入を招き、戦乱が拡大する(第一次カスティーリャ継承戦争)。エンリケ2世は一度はペドロ1世に敗れるが(ナヘラの戦い)、1369年にペドロ1世がモンティエルの戦いで戦死、エンリケ2世がカスティーリャ王に即位し、トラスタマラ朝が開かれた。
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