カスティーリャ王国統一とは? わかりやすく解説

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カスティーリャ王国統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:44 UTC 版)

カスティーリャ王国」の記事における「カスティーリャ王国統一」の解説

カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲラレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年に母から王位譲られカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年レオン王位も継承したレオンカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国呼ばれる1236年コルドバ攻略成功1246年にはナスル朝臣従させる。1248年セビリア攻略には、ナスル朝からも兵を拠出させ、長期戦の末に陥落させた。こうして、イベリア半島イスラム国ナスル朝グラナダ王国のみとなったフェルナンド3世の後を継いだアルフォンソ10世は、カスティーリャレオン異なっている政治制度法律通貨税制度量衡などの統一とりかかりローマ法元に『七部法典』を編纂した首都トレドではトレド翻訳学派スペイン語版英語版)と呼ばれる学者集団努力アルフォンソ10世の支援アラビア語書かれ医学数学天文学著作ラテン語翻訳されヨーロッパもたらされた。 アルフォンソ11世は『七部法典』を実施移したグラナダ王国は、アフリカマリーン朝提携してカスティーリャ王国対抗していたが、1340年のサラードの戦いでカスティーリャ軍が勝利しマリーン朝イベリア半島から手を引かせグラナダ王国孤立化させた。しかし、グラナダ攻略することはできなかった。1343年カタルーニャ上陸したペストは、翌年カスティーリャでも猛威振るい全人口の2割近く死亡したまた、王権強化目指す王は下級貴族登用し、有力貴族押さえようとするが、既得権守りたい有力貴族反発し王位継承権をめぐる争い発展するペドロ1世庶子であるエンリケ2世王位継承権争いは、アラゴングラナダさらには百年戦争中のフランスイングランド介入招き戦乱拡大する第一次カスティーリャ継承戦争)。エンリケ2世一度ペドロ1世敗れるが(ナヘラの戦い)、1369年ペドロ1世モンティエルの戦い戦死エンリケ2世カスティーリャ王即位しトラスタマラ朝開かれた

※この「カスティーリャ王国統一」の解説は、「カスティーリャ王国」の解説の一部です。
「カスティーリャ王国統一」を含む「カスティーリャ王国」の記事については、「カスティーリャ王国」の概要を参照ください。

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