カスティーリャ王国の内紛と興隆とは? わかりやすく解説

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カスティーリャ王国の内紛と興隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「カスティーリャ王国の内紛と興隆」の解説

後ウマイヤ朝からの圧力減退したため、イベリア北部ではキリスト教勢力再編起こっていた。ナバラ王サンチョ・ガルセス3世は、レオン王国攻めて一挙に勢力拡大し、さらにカスティーリャ伯領から后を迎えた1029年カスティーリャ伯のガルシア・サンチェスが暗殺されると、カスティーリャナバラ王国併合した1035年、サンチョ・ガルセス3世死亡し遺領分割相続された。ナバラ長男のガルシア・サンチェス3世カスティーリャ次男フェルナンド1世、ソブラルベ伯領は三男ゴンサロアラゴン庶子ラミロ1世与えられた。この時、カスティーリャアラゴン王号称しそれぞれカスティーリャ王国アラゴン王国となった1037年フェルナンド1世レオン王国併合しカスティーリャ・レオン連合王国建国した。1065年フェルナンド1世バレンシア遠征途上病死カスティーリャ・レオン連合王国もまた分割相続され、カスティーリャ長男サンチョ2世レオン次男アルフォンソ6世ガリシア三男ガルシア与えられた。 しかし、間もなく兄弟分割され遺領独占するために争い始めた。この時、サンチョ2世部下エル・シッドとして後に知られるロドリーゴ・ディアスがいた。アルフォンソ6世1071年ガルシア撃破したが、1072年にはサンチョ2世敗れてトレド逃亡した当時トレドタイファトレド王国首都であったが、国王のアル・マムーンはアルフォンソ迎え入れた。彼はトレドイスラム先進的な知識学んだ同年サンチョ2世暗殺アルフォンソ黒幕とされている)されると、アルフォンソカスティーリャ帰還し直ちレオン侵攻、さらにガリシア併合しカスティーリャ・レオン連合王国再統合した。1076年ナバラ王のサンチョ・ガルセス4世暗殺されると、アルフォンソナバラ侵攻した。しかし、機先を制したアラゴン王国によってナバラ王国継承された。 その後アルフォンソ6世南方タイファ諸国攻撃をかけた。ただし征服はせず、主としてタイファ諸国から貢納引き出方法選択した1080年トレド国王カーディル追放されバダホス王国ムタワッキルトレド支配権握ったアルフォンソカーディル保護し、彼を復位させるために南下した同年4月アルフォンソムタワッキル追いカーディル復位させた。しかし、トレド王国内のカーディル派は、サラゴサ王国セビリア王国引き込んでアルフォンソ対抗させた。アルフォンソ戦い優勢に進め1085年トレド陥落させた。続く1086年にはバレンシア制圧し、「2つ宗教皇帝」を自称した(キリスト・イスラムの皇帝の意。あるいはユダヤ教加えて3つとも)。

※この「カスティーリャ王国の内紛と興隆」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「カスティーリャ王国の内紛と興隆」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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