カスティーリャ王国の内紛と興隆
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「レコンキスタ」の記事における「カスティーリャ王国の内紛と興隆」の解説
後ウマイヤ朝からの圧力が減退したため、イベリア北部ではキリスト教勢力の再編が起こっていた。ナバラ王サンチョ・ガルセス3世は、レオン王国を攻めて一挙に勢力を拡大し、さらにカスティーリャ伯領から后を迎えた。1029年にカスティーリャ伯のガルシア・サンチェスが暗殺されると、カスティーリャをナバラ王国に併合した。1035年、サンチョ・ガルセス3世は死亡し、遺領は分割相続された。ナバラは長男のガルシア・サンチェス3世、カスティーリャは次男のフェルナンド1世、ソブラルベ伯領は三男のゴンサロ、アラゴンは庶子のラミロ1世に与えられた。この時、カスティーリャ、アラゴンは王号を称し、それぞれカスティーリャ王国、アラゴン王国となった。 1037年、フェルナンド1世はレオン王国を併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を建国した。1065年、フェルナンド1世はバレンシア遠征の途上で病死、カスティーリャ・レオン連合王国もまた分割相続され、カスティーリャは長男のサンチョ2世、レオンは次男のアルフォンソ6世、ガリシアは三男のガルシアに与えられた。 しかし、間もなく兄弟は分割された遺領を独占するために争い始めた。この時、サンチョ2世の部下にエル・シッドとして後に知られるロドリーゴ・ディアスがいた。アルフォンソ6世は1071年にガルシアを撃破したが、1072年にはサンチョ2世に敗れてトレドへ逃亡した。当時のトレドはタイファのトレド王国の首都であったが、国王のアル・マムーンはアルフォンソを迎え入れた。彼はトレドでイスラムの先進的な知識を学んだ。同年、サンチョ2世が暗殺(アルフォンソが黒幕とされている)されると、アルフォンソはカスティーリャに帰還し、直ちにレオンに侵攻、さらにガリシアを併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を再統合した。1076年、ナバラ王のサンチョ・ガルセス4世が暗殺されると、アルフォンソはナバラへ侵攻した。しかし、機先を制したアラゴン王国によってナバラ王国は継承された。 その後、アルフォンソ6世は南方のタイファ諸国へ攻撃をかけた。ただし征服はせず、主としてタイファ諸国から貢納を引き出す方法を選択した。1080年、トレドで国王のカーディルが追放され、バダホス王国のムタワッキルがトレドの支配権を握った。アルフォンソはカーディルを保護し、彼を復位させるために南下した。同年4月、アルフォンソはムタワッキルを追い、カーディルを復位させた。しかし、トレド王国内の反カーディル派は、サラゴサ王国やセビリア王国を引き込んでアルフォンソに対抗させた。アルフォンソは戦いを優勢に進め、1085年にトレドを陥落させた。続く1086年にはバレンシアを制圧し、「2つの宗教の皇帝」を自称した(キリスト・イスラムの皇帝の意。あるいはユダヤ教を加えて3つとも)。
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