カスティーリャ及びレオンの王妃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 07:13 UTC 版)
「リクサ・シロンスカ」の記事における「カスティーリャ及びレオンの王妃」の解説
1146年、父ヴワディスワフ2世はポーランド君主の座を追われたため、リクサは両親や兄弟たちと共に亡命生活を送ることになった。一家はまずボヘミアに赴き、次いでローマ帝国(中世ドイツ)に移った。ローマ王コンラート3世は君主位を失った義弟のためにザクセンのアルテンブルクを所領として与えた。 1151年、レオンとカスティーリャの王アルフォンソ7世が、政略結婚を通じてローマ帝国と同盟関係を結ぶ意向を示しているという話が持ち上がった。コンラート3世の姪であるリクサは、イベリア半島の支配者の妃候補として最もふさわしい立場にいた。1152年の10月から12月の間に、リクサはアルフォンソ7世と結婚した。アルフォンソ7世にとっては、リクサは2番目の妻だった。カスティーリャではリクサはリキルダと呼ばれた。リクサにとって最初の子供であるフェルナンドは、1153年の暮れにトレドで生れた。その2年後の1155年、リクサは第2子である娘サンチャを出産した。1157年8月21日、アルフォンソ7世はシエラ・モレナでムーア人と戦っている最中に突然死した。リクサの息子フェルナンドも父の死の直前に亡くなっていた。
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