カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)
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「ジブラルタル」の記事における「カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)」の解説
1462年にメディナ・シドニア公がジブラルタルを奪取し、750年間に渡るムーア人の支配を終えた。メディナ・シドニアは追放されたスペイン・ポルトガル系ユダヤ人にジブラルタルの土地を与え、コンベルソのペドロ・デ・エレアがコルドバとセビリアから一団のユダヤ人を移住させ、コミュニティが建設された。そして、半島を守るため駐屯軍が設立された。しかし、セファルディムとなったユダヤ人は数年後にコルドバか異端審問所に送還された。フェルナンド2世がスペイン王国を打ちたて、1501年にはジブラルタルもスペイン王国の手の下に戻った。同年にイサベル1世からジブラルタルの紋章が贈られた。 八十年戦争中の1607年にオランダ艦隊がスペイン艦隊を奇襲し、ジブラルタル沖が戦場となった(ジブラルタルの海戦)。この海戦でスペイン艦隊は大きな打撃を被った。1701年にスペイン王位継承で候補者の1人カール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の即位を後押しするオーストリア、イギリス、オランダがフランス王ルイ14世とスペイン王フェリペ5世に宣戦布告し、スペイン継承戦争が始まると、オーストリア、イギリス、オランダの同盟艦隊はスペイン南岸にある港町の襲撃を繰り返した。 1704年8月4日、ジョージ・ルーク提督率いるイギリスとオランダの艦隊の支援の下、オーストリアの軍人であるゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世の息子)指揮下の海兵隊がジブラルタルに上陸した。交渉の末、住民は自主退去を選択し、海兵隊はジブラルタルを占領した(ジブラルタルの占領)。フランス・スペイン連合軍はジブラルタル奪回のため艦隊をトゥーロンから派遣、それを阻止しようとルーク率いるイギリス・オランダ海軍が迎撃に向かい、フランス・スペイン海軍が撤退したことでジブラルタルは確保された(マラガの海戦)。
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