カスティーリャ伯領の設置とマンスールの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)
「レコンキスタ」の記事における「カスティーリャ伯領の設置とマンスールの台頭」の解説
レオン王国の最前線となる東部地域は、すでに9世紀初頭には「城」を意味するカスティーリャの名で呼ばれていた。932年、後ウマイヤ朝の北上に対抗させるため、レオン王国はこの地域を統合してカスティーリャ伯領を設置し、フェルナン・ゴンサレスをカスティーリャ伯とした。しかし、カスティーリャは次第に独立色を強めていき、やがてレオン王国を乗っ取ろうとするようになった。 951年、フェルナン・ゴンサレスはレオンの王位を要求し、カスティーリャとレオン王国の間に戦端が開かれた。958年、レオン王のサンチョ1世はカスティーリャ軍によって国を追われた。サンチョ1世は後ウマイヤ朝に通じ、王位復帰後の臣従と領土の割譲を約束して、援軍を引き出すことに成功した。960年、レオンの王位に復帰したサンチョ1世は、後ウマイヤ朝との約束を全て無視した。北アフリカ戦線が停滞していた後ウマイヤ朝は、これを機に主攻をイベリア戦線に切り替えた。キリスト教勢力は連合を結び、シマンカスの戦いの再現を狙った。しかし、北アフリカとの二正面で作戦していた前回と違い、後ウマイヤ軍は戦力を集中させていた。連合軍は大敗し、一時はバルセロナやパンプローナまで危機に陥った。劣勢となった連合は講和を願い出た。後ウマイヤ朝は貢納と引き換えに講和を了承した。 976年、ヒシャーム2世が即位した。彼は未成年だったため、筆頭大臣のムハンマド・イブン・アビー・アーミルが後見した。すると彼の権勢に嫉妬したガーリブが謀反し、カスティーリャと連携を結んだ。ムハンマドは直ちに討伐の軍を起こし、ガーリブを破って敗死させ、その勢いでカスティーリャに侵攻した。キリスト教勢力は再び連合を組んで対抗しようとしたが、ムハンマドの巧妙な戦略にまるで抗することができなかった。ムハンマドの攻勢はイベリア半島全土におよび、バルセロナ、パンプローナ、ポルトといった主要都市まで侵攻した。キリスト教勢力は完膚なきまでに敗北し、ことごとく後ウマイヤ朝に臣従を誓った。ナバーラ王国のサンチョ2世はムハンマドに娘を差し出した。この一連の勝利によって、ムハンマドはアル・マンスール・ビッラー(神によって勝利する者)を称した。
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