カスティーリャ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 07:33 UTC 版)
1366年8月、 バスク地方のバイヨンヌで合流したペドロと黒太子はナバラ王カルロス2世と会談し、カスティーリャ侵攻の際の条件について話し合った。カルロス2世はペドロからたっぷりと報酬を受け取り、イングランド軍のナバラ通過を許可した。なりふり構っていられないペドロはナバラ王への支払いのほかに、黒太子が募った傭兵への報酬の支払いや、カスティーリャの領土割譲さえも約束した。 一方のエンリケは、ペドロを追放したまではよかったが、挙兵のため集めた傭兵の報酬があまりに高額だったため、やむなく兵を解散してしまっていた。エンリケ陣営を離れた傭兵はカスティーリャを荒らし回ったり、敵方のペドロの軍に加わったりした。1367年2月、イングランド軍がピレネー山脈を越えてカスティーリャに侵攻すると、エンリケは集められるだけの兵を集め、ベルトラン・デュ・ゲクランをサラゴサからカスティーリャに呼び戻した。ゲクランが率いる1,000人足らずの装甲兵士(英語版)とアラゴン貴族らがエンリケの陣に加わったが、兵力の大部分はアラゴンを防衛のために残さざるを得なかった。エンリケ軍の兵力は、フランス人傭兵1,000人を含む4,500人だった。
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