13世紀末の攻防
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「カラ・ホジョの戦い」の記事における「13世紀末の攻防」の解説
「カラ・ホジョの戦い」に代表される1270年代〜1280年代のウイグリスタン攻防戦と同時期に、北方モンゴル高原においても「シリギの乱」と呼ばれる重大事件が起こっていた。「カイドゥの乱」が始まった当初、クビライは対抗策の一つとして末子のノムガン率いる大軍団をアルマリクに派遣していたが、この軍団に属していたシリギ、トク・テムルらトゥルイ系諸王が1276年に総可令ノムガンらを捕虜として蜂起した。この事件のために大元ウルスの対中央アジア戦略は大打撃を受け、クビライは崩壊したノムガン軍の代わりとしてホータンとビシュバリクに前線司令部を置いた。ただし、「シリギの乱」はモンゴル高原西部に領地を持つトゥルイ系諸王がカイドゥ・ウルスに投降するというもう一つの副産物をもたらし、このために大元ウルスとカイドゥ・ウルス間の戦争の主戦場は中央アジアからモンゴル高原西部に移った。 「シリギの乱」を経て相対的に重要度の下がった中央アジア戦線では、これ以後大規模な軍事衝突は3件ほどしか記録されていない。「シリギの乱」後、ウイグリスタンで最初に大規模な軍事行動を起こしたのはオゴデイ系グユク家のトクメで、1280年(至元17年)にトクメの掠奪によって荒廃したカラ・ホジョでは飢饉が起こり、3年に渡って免税が行われたと記録されている。次に大規模な衝突があったのは前述した1285年(至元22年)で、ドゥアとブスマ兄弟がアスト部のバイダルらと戦ったと記録されている。なお、この時の戦争は翌1286年(至元23年)まで続いたようで、ミンガンや李進といった軍人がビシュバリク(ビシュ・バルガス/別失八剌哈思)一帯で「カイドゥとドゥア(海都・篤娃)」の軍勢と戦ったと記されている。 一方、天山ウイグル王家は度重なる戦乱によってウイグリスタンに留まることができず、クムル(甘木里、モンゴル語ではハミル)から更に東方の永昌に移住することになった。永昌はかつての甘州ウイグルの故地でもあり、ウイグル人にとっては居心地の良い移住先であったため、ウイグル王家は永昌に根を下ろすことになった。ウイグル王家がクムルに移住し、その地でコチカル・テギンが死去した時期、その子のネウリン・テギンが永昌に移住した時期はいずれも不明であるが、「カラ・ホジョの戦い(至元12年)」以降、至元23年以前のことであると推測されている。 クビライ時代におけるウイグリスタン最後の軍事衝突は、1290年(至元27年)のジャンギ(章吉)によるクムル攻撃であった。「ジャンギ」はカイドゥ・ウルスに亡命したアリクブケの子のメリク・テムルの家臣と見られ、これを迎え撃ったのはチュベイ、バイダカンら大元ウルスに亡命したチャガタイ系諸王であった。杉山正明は以上のようなウイグリスタン攻防戦を総括して「(ウイグリスタン方面における)めぼしい軍事衝突は2・3回程度しかなかった」こと、戦闘そのものよりもカイドゥ・ウルスに対抗するためこの方面に配備されたチャガタイ系諸王がチュベイを頂点とするひとまとまりの勢力(チュベイ・ウルス)を形成したことがこの地方の歴史に多大な影響を残したことを指摘する。 以上のように、クビライの治世を通じてウイグリスタンでは大元ウルスとカイドゥ・ウルスの間で一進一退の攻防が繰り広げられ、両者の勢力はウイグリスタンで拮抗していた。これを裏付けるように、『集史』ではクビライの治世末期のこととして、 ウイグリスタンは「クビライとカイドゥ両方に属する状態にあった」と述べている。
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