クビライ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:48 UTC 版)
オチチェルはチンギス・カンに仕えたボロクルの孫のシレムンと、金朝の宰相の家系に生まれた石氏の間の息子として生まれた。シレムンは若くして亡くなったため、モンゴル帝国第5代皇帝クビライは父を早くに失ったオチチェルを憐れみ、16歳の若さで召し抱えた。オチチェルは若くして所作に落ち着きがあり、受け答えも明晰であったためクビライは喜んで重用し、代々ボロクル家の人間が務める第4ケシクの長官に任じ、更に1280年(至元17年)には第1ケシク長にも任じられた。 1289年(至元26年)にはカイドゥがアルタイ山脈を越えてモンゴル高原中央部のハンガイ地方に進出し、大元ウルス側では丞相のアントン、バヤン、御史大夫のウズ・テムル(オルルク・ノヤン)らが撃退のため出陣した。この時、オチチェルは自らも出陣してカイドゥと戦いたいとクビライに申し出たが、クビライはこれを押しとどめている。翌1290年(至元27年)、朝廷ではサンガが尚書省を再設立して専権を振るっていた。サンガの横暴な振るまいを憂えた尚書平章のイェスデルはサンガを弾劾することをオチチェルに請願し、オチチェルの活動もあってサンガは1291年に失脚した。サンガの失脚後、その悪事を暴いた功績としてオチチェルはサンガから没収された土地・財産を与えられた。 サンガが失脚したころ、朝廷では湖広行省で畲族といった少数民族が反抗的で政情が不安定なことが問題視されており、優秀な人材が必要とされていた。 そこで湖広行省に派遣する人物としてオチチェルがハルガスンを推挙したところ、はたしてハルガスンは湖広地方を8年にわたってよく治め、湖広一帯は安定した。後にハルガスンは中央に戻って最高位の丞相に任じられており、世間はオチチェルの人をみる目の確かさを褒めたたえたという。また、1291年(至元28年)には大都周辺の水運の開発に携わり、完成した運河は「通恵河」と名付けられて官民ともに大いに用いられた。クビライはオチチェルの指導ぶりを褒めたたえ、「オチチェルが指揮を取らなかったら、これほど早くは完成しなかっただろう」と語ったという。
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