クビライ側近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)
「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「クビライ側近」の解説
モンゴル帝国では初代チンギス・カン以来、皇帝(カアン)には1万のケシク(親衛隊)がつき、カアンの身辺世話・護衛を務める制度が確立されていた(ケシク制度)。クビライ自らの出陣に当たってクビライ・ケシクも従軍しており、戦闘時には「(ケシクの)ジルカランのみが剣を帯びて寝門の外に立つことを許され、親王や貴人であっても許しなしにその中に入ることは許されず、(ケシクの賀勝が)ゲルの中のクビライから密旨を受けて諸将に伝令した」ことが記録されている。クビライ・ケシクの中にはカアンの身辺警護のみならず、アシャ・ブカのように諸王の下に使者として派遣されるなど特殊な任務を果たした者もいた。 また、ケシクとは別にこの主力軍には枢密院のバヤン、大司農のテケ、御史台のウズ・テムル(後述)といった、朝廷の高官も多数従軍していた。ここには中書省、枢密院、御史台といった中央の三大省庁の高官が揃っており、「元朝の朝廷そのものが規模を縮小しつつ移動してきた」ようなものであった。彼らは基本的にクビライの側近くにあって献策や相談を受けることなどを主な役目としていたが、郭明徳という人物は直接武器を執って戦ったことが記録されており、これら高官もいざという時には武器を取って戦闘に加わったようである。
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