クビライへの反逆とは? わかりやすく解説

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クビライへの反逆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:45 UTC 版)

カイドゥ」の記事における「クビライへの反逆」の解説

カイドゥ属すオゴデイ家一門は、モンゴル帝国第3皇帝であったグユク1248年没すると、トルイ家帝位奪われジュンガリア地方現在の中国新疆ウイグル自治区北部エミル川流域所領ウルス)は没収されなかったものの、有力者追放されるなど厳し圧迫加えられた。これに不満をもったカイドゥは、1259年に第4代皇帝モンケ急死してその弟のクビライアリクブケ後継者争いモンゴル帝国帝位継承戦争)を始めるとアリクブケ与しこの内紛がアリクブケ敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求するクビライ求め拒否した。この混乱の間にカイドゥオゴデイ家内での権力を掌握し、1266年西北モンゴリアにいたクビライ配下の軍を攻撃して反抗意図明確にした。 クビライは、新当主ムバーラク・シャー母后オルガナ摂政として補佐するチャガタイ家勢力吸収して西方諸王家掌握することを狙いムバーラク・シャー叔父イェスン・トアの次男であったバラクチャガタイ家本領イリ派遣した。しかし、バラククビライから飽くまで共同統治せいぜい補佐命じられていたにもかかわらずムバーラク・シャー年少であるのを理由力ずく当主位を奪い後見する称して服属させてしまった。こうしてバラクイリ方面チャガタイ家勢力統合すると、隣接するカイドゥ勢力狙い西進するようになったかくしてカイドゥ西南で境を接すチャガタイ家ウルスチャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクマー・ワラー・アンナフル現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領支配権横領めぐって争ったが、1269年至りバラクおよび西北ジョチ・ウルス代表者会盟し、マー・ワラー・アンナフル領を両家分割するとともに共同してクビライ反旗を翻すことを決した通説ではこの時、カイドゥクビライ対抗するモンゴル皇帝選出されたとされてきたが、史料上で確認できず、現在は史実とは考えられていない実際カイドゥは自勢力下の王族臣下からはモンゴル皇帝、つまりカアンQa'an; قاآنQā'ān)どころかハンQan>χan; خان khān)とも呼ばれてはおらずもっぱらカイドゥ・アカ(Qaidu Aqa> قايدو آقا Qāydū Āqā)と呼ばれていた(『集史』アバカ・ハン紀など)。アカAqa)とはモンゴル語で「兄さん」・「兄貴の意味で、特にモンゴル系諸部族チンギス・カン家などで、一門取りまとめる年長者統率者に対して用いた敬称である(バラクイルハン朝への遠征時に自軍将兵から「バラク・アカ」と呼ばれている)。ただし、『五族譜』(シュアビ・パンジュガーナ)やミールホーンドの『清浄なる庭園』(ラウダト・アッサファー)など後代資料では「カイドゥ・ハン」(Qaydū Khān قيدو خان) と書かれている場合もある。

※この「クビライへの反逆」の解説は、「カイドゥ」の解説の一部です。
「クビライへの反逆」を含む「カイドゥ」の記事については、「カイドゥ」の概要を参照ください。

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