クビライと元宗の王政復古
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「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「クビライと元宗の王政復古」の解説
高宗の世子の王倎はカアンのモンケに拝謁するため、モンゴルへ向かっていたが、1259年南宋へ遠征中のモンケが急逝。上都開平府へ帰還中のクビライ(モンケの弟。後の元世祖)に拝謁した。さらに翌1260年春、今度は高宗が没したため王倎は帰国を哀願、クビライは帰国を許可した(即位して元宗と称する)。4月12日、モンゴル皇帝に即位したクビライは王倎以下上下朝臣の帰服を嘉した。王倎が、モンゴル軍による掠奪の免除と捕虜・逃民を帰参させる許しを求めると、5月13日に詔諭を下しこれを許可した。6月、王倎が子の王僖を入朝させたことにより、国王の冊封を受け王印と虎符を賜った。 以後、元宗は度々モンゴル・元朝へ入貢を行いモンゴルを背景として権力の安定を図ったが、反モンゴル派はこれを不満として親モンゴル派との対立を深める。1268年、林衍(イム・ヨン)らが権臣・金俊を暗殺する。翌年には林衍らが親モンゴル派の崔坦(チェ・ダン)らとの確執により、元宗を廃して弟の安慶公王淐を擁立する乱を起こした。クビライは、入朝していた世子の王諶の、兵3,000と5カ月分の糧秣を頂き私が同行すれば騒乱は収められる、との献策を受けて諶に3000・将軍モンゲトゥに2000の兵を授け高麗へ派遣、モンゴル軍は瞬く間に乱を鎮圧した。さらに急死した林衍の跡を継ぎ高麗令公(高麗武人のトップ)となった林惟茂(イム・ユム)を文班の洪文系(ホン・ムンギェ)、宋松礼(ソン・ソンネ)らが殺害、高麗の武臣政権は終わりを告げ、王政復古が成った。
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