クビライの即位まで
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1254年、24歳の廉希憲は京兆安撫使に任じられた。京兆は諸民族が雑居することから難治の地とされていたが、廉希憲は弱きを助けて強きを挫き、この地をよく治めた。しかし、南宋攻略の方針を巡って時の皇帝モンケとクビライは次第に対立するようになり、遂にクビライは南宋攻略司令官から更迭されてモンケの側近アラムダールらによる京兆の会計監査が行われることになった。この時、廉希憲はアラムダールらに対して殺然として対応したため、クビライの幕下の中で史天沢と廉希憲のみがアラムダールの追究を逃れたという。 1259年にモンケが急死すると弟のクビライとアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発したが、この時廉希憲はいち早くクビライに即位を勧めた人物の一人であった。そこでクビライはアリクブケ軍との戦闘に先立って廉希憲を京兆方面の偵察に赴かせ、帰還した廉希憲は「[アリクブケ派将軍の]クンドゥカイは勢いに乗じて東進し我が軍を攻撃することはできない。何故ならば、今クンドゥカイの下にいる兵は状況に流されてアリクブケ派についた者が大多数で、意思が統一されていないからだ。もしクンドゥカイが敵対勢力(クビライ派)に誼を通じようとする者を捕らえるようになれば、疑心暗鬼を生じて仲間割れを始めるだろう……」と報告している。1260年、クビライ派の諸将はドロン・ノールに集結してクリルタイを開き、そこでクビライはアリクブケ派を無視した即位式を執り行った。この時、廉希憲は東道諸王を率いるタガチャルにクビライ即位を支持するよう説得しており、帝国でも有数の実力者であるタガチャルの存在はクビライ即位の強力な後ろ盾となった。 1262年に李璮の乱が起こると、廉希憲は李璮と通じているとの識言があり、これを聞いたクビライは一時廉希憲を解任してしまった。その後、廉希憲の無実が証明されると、廉希憲は改めて中書省の平章政事に任命された。廉希憲は中書省の高級官吏として多くの事業に携わり人々の賞賛を受けるようになったが、一方で次第に尚書省のアフマドと対立するようになっていった。
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