李璮の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:24 UTC 版)
1262年(中統3年)正月、南宋の宰相賈似道は書簡を送って李璮にモンゴルを裏切って南宋側につくよう誘った。この時点で李璮は既に叛乱を起こすことを決めていたが、唯一の懸念がトルカク(質子)としてクビライの下に送られていた息子の李彦簡の存在であった。そこでかねてから李璮は密かに私的な駅伝網を整備し、これを利用して李彦簡は正月29日(丙戌)、クビライの陣営から脱走した。そして2月3日(己丑)、李璮は漣水・海州3城を南宋に割譲し、援軍として派遣されていたモンゴル兵を皆殺しにして公然とクビライに叛旗を翻した。これに対し、南宋側では李璮に保信寧武軍節度使・督視京東河北等路軍馬・斉郡王の地位と父の李全の爵位を与え、モンゴルに対する叛乱を全面的に支援した。 李璮はまず南宋との国境地帯から北上して自らの根拠地たる益都を攻め、2月8日(甲午)に早くもこれを陥落させた。ところが李璮の予想に反して益都周辺の住民は城郭に籠もるか山谷に逃れて李璮軍との接触を避け、益都から臨淄に至る一帯からは人の姿がほとんど消えてしまった。李璮が益都住民からの支持を集められなかったのは、李璮の軍団が長く南宋との国境地帯にあって益都を離れて久しかったこと、益都軍閥は他の軍閥に比べ内政・文化振興にそれほど力を入れず軍事集団であることを優先したことなどが影響したためと考えられている。住民の支持を得られなかった李璮は益都が堅固な要害ではないことに不安を覚え、2月26日(壬子)に西隣の済南張氏が拠点とする済南を奪い、これを新たな拠点とした。 一方、クビライは2月17日(癸卯)に李璮の乱勃発の報を聞いたが、未だアリクブケとの内戦中のためモンゴル軍主力を振り向けることはできず、主に自らに協力的な漢人世侯の力を借りて叛乱を鎮圧しようとした。そのため、まず翌18日(甲辰)には水軍万戸解成・張栄実・大名万戸王文幹・万戸厳忠範らは東平に、済南万戸張宏・帰徳万戸邸浹・武衛軍砲手元帥薛軍勝らは浜州・棣州にそれぞれ集結するよう命じ、張宏の父の張柔にはクビライの下に来るよう要請した。そして3月17日(癸酉)にはウリヤンカイ部名門スベエテイ家出身のアジュを唯一のモンゴル兵部隊とともに派遣し、また20日(丙午)には傍系王族の合必赤が全軍の司令官に抜擢された。アジュら叛乱鎮圧軍はこれを迎撃せんと出撃してきた李璮軍を撃ち破り、斬首4000級を数える大勝利を収めた。また、同月22日(戊寅)には万戸韓世安らが高苑で李璮軍を破り、各地で連敗を喫した李璮は済南に戻って籠城せざるをえなくなった。なお、李璮が済南に入ったことを聞いた史天沢は、「豚が家畜の檻に入ったようなものだ。無能のなす策である」と笑ったという。 4月1日(丙戌)、李璮の拠る済南を包囲した諸軍は力攻めをせず、柵と塹壕で「環城」を築き、翌5月までには済南を完全包囲した。このように、堅固な要塞を力攻めせずに完全封鎖し、幾重にも防御戦と警戒線を張り巡らせるという手法は後に襄陽・樊城の戦いなどでも再現されることとなった。李璮の窮状を知った南宋の側でも北伐軍を派遣したが、モンゴル軍の防衛戦を破ることができずやむなく撤退した。外部との出入りが全くできなくなった李璮は配下の兵の士気を保つために城民の娘を兵に与え、民家から食料を掠奪したため、李璮への人心は完全に去った。 7月20日(甲戌)、続々と城民・城兵が逃亡しもはや籠城を続けることは不可能だと覚った李璮は手ずから愛妾を殺し、船に乗って大明湖に入りそこに身を投げた。ところが水位が浅かったために李璮はここで死ぬことができず、遂にモンゴル軍によって捕らえられた。捕らえられた李璮が軍団総司令のカビチの前に引き出されたが、同席していた史天沢は「宜しく即ちに之を誅し、以て人心を安んず」と進言し、李璮は直ちに斬刑とされた。 このように、「李璮の乱」そのものは益都・済南の山東西部一帯から広がることはなく、約半年という短期間にて鎮圧された。しかし、叛乱の最中・鎮圧後に密かに李璮に通じていた漢人世侯の存在が続々と明らかになり、クビライの側ではこれ以上漢人世侯という強大な軍閥の存在を容認し得なくなった。そのため、李璮の乱鎮圧後から漢人世侯解体政策がとられ、1264年(至元元年)12月には「始めて諸侯の世守するをやめ、遷転法を立つ」と宣言された。漢人世侯廃止の切っ掛けとなり、モンゴルによる華北支配に大きな転換点をもたらした点にこそ、「李璮の乱」の歴史的意義があると評されている。
※この「李璮の乱」の解説は、「李璮」の解説の一部です。
「李璮の乱」を含む「李璮」の記事については、「李璮」の概要を参照ください。
- 李璮の乱のページへのリンク