李登輝のコーネル大学訪問
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「第三次台湾海峡危機」の記事における「李登輝のコーネル大学訪問」の解説
この危機は1995年に台湾の李登輝総統が母校のコーネル大学から「台湾の民主化経験」に関する演説を行なう招待を受けたことにより始まった。台湾を外交上孤立させようとしている中国はこの種の台湾要人のアメリカ訪問に反対した。中国は、李登輝は台湾独立運動の考えを持っているので地域の安定への脅威であると主張した。 その前年の1994年に李登輝の南アメリカ訪問の帰途、乗機がホノルルにテクニカルランディングで立ち寄った際に、クリントン政権の連邦政府は入国ビザ(査証)を求める李登輝の要請を拒否していた。李登輝はヒッカム空軍基地に足止めされ、機内に一晩中留まることを余儀無くされた。国務省当局者はこれを「厄介な状況」とし、李登輝は2流指導者の扱いを受けたと抗議した。 李登輝がコーネル大学訪問を決めると、アメリカのウォーレン・クリストファー国務長官は中国の銭其琛外交部長に、李登輝に対するビザ発給は(アメリカと台湾の)非公式な関係と矛盾することになると確約した。しかし1994年の訪問において李登輝が受けた恥辱が多くの台湾支持者の注目を集めていたため、アメリカ議会は李登輝の為に動いた。1995年5月に李登輝がアメリカを訪問出来るよう国務省に求める同一内容の決議(英語版)が下院では396票対0票(棄権38)で、上院では97票対1票(棄権2)で可決された。1995年5月22日に国務省は態度を軟化させ、中国はこの動きは米中関係を損なうとアメリカを非難した。 李登輝は1995年6月9日から10日にコーネル大学同窓会に参加し、これに中国の国営報道機関は「中国を分断する」企図を持つ「反逆者」と烙印を押した。
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