アメリカ訪問
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研究所は再開したが、それは設備も試料にも事欠く状態であった。1920年にロスチャイルド家が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が回らなかった。 この年の5月、アメリカ合衆国の女性雑誌『ディリニエター(英語版) (The Delineator)』編集長のマリ・マッティング・メロニー(英語版、フランス語版)からの申し入れを受けて、マリはインタビューに応じた。この席で今何が欲しいかという質問に、1グラムのラジウム金属と答えた。その価格は既に5万ドルに相当したが、アメリカの恵まれた科学研究所を知るメロニーにとって驚きの回答だった。彼女は帰国後にキャンペーンを行い、マリにラジウムを贈呈する資金を集めた。 彼女の求めに応じ、1921年5月、マリは娘二人とアメリカ渡航を決めた。そのスケジュールに多くの大学などへの歴訪から、アメリカ合衆国大統領との式典までもが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が何ら名誉を与えていない不細工さを補おうとまたもレジオンドヌール勲章を授与しようとした。しかし以前と同じ理由でマリは断った。研究から離れたこの宣伝活動は気の進まないものだったが、マリは各地で大歓迎を受け、5月20日、大統領ウォレン・ハーディングから直々にラジウム授与が行われた。ただし彼女はこれを個人への贈与ではなく研究所への寄贈と扱ってもらい、個人の財物にはしなかった。 1929年には再渡米し、マリは1925年にワルシャワに姉妹と設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功した。
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アメリカ訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/18 22:28 UTC 版)
耆英はニューヨークを訪れた最初の中国船だった。この船は1847年7月にマンハッタン島の南端のバッテリーに、盛大なファンファーレに迎えられながら投錨した。この航海について耆英の水夫は腹を立てていたが、それは理解できるもので、なぜなら彼らは香港からシンガポールとバタヴィアへ向かう8週間の航海契約にサインしただけであった。26人の水夫が当地で船を下り、広東に戻るカンダス(Candace)号に乗船した。カンダス号は1847年10月6日に中国へ出帆した。耆英は当地に数か月とどまった。1日あたり4000人にも及ぶ観衆が25セントを払って耆英に乗船し、船のデザインやクルーを見て回った。アメリカの有名な興行師であったP・T・バーナムはニュージャージー州のホーボーケンに耆英の複製を作り(彼はそれを中国から引っぱって来たと言っていた)、恐らく幾人かは耆英の水夫も混じっていたのではないかと思われるクルーとともに公開していた。しかし当時のブルックリン・イーグル紙(en)によると、バーナムの雇ったクルー達は「3分の1が白人、3分の2が黒人もしくはムラート」と書かれているので耆英の本物の水夫はいなかった可能性もある。 また、1847年のボストン・イブニング・トランスクリプト紙(en)にとると、耆英は1847年11月にチャールズ・リバー・ブリッジを通ってボストンへ寄港したとされる。耆英が到着すると、感謝祭に集まった4、5千人を含む多くの群衆が詰めかけた。
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