アメリカ議会の動き
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「1959年のメジャーリーグベースボール」の記事における「アメリカ議会の動き」の解説
アメリカ議会の動きは1959年になると下院から上院に移り、上院反トラスト委員会のキーフォーバー委員長(3年前の1956年大統領選挙で民主党副大統領候補となったが敗れた)が、ベースボール・アメリカンフットボール・バスケットボール・アイスホッケーのプロスポーツに対して共通の法律的措置を加え、これまでくすぶっていた独占禁止法に関する問題を解決することが必要だと述べた。これは実は野球機構などを反トラスト法の適用範囲に含めたうえで幾つかの側面については除外することを目指していた。そしてこれとは別にキーティング、ダークセンなど3人が上院議員が、これらのスポーツを逆に反トラスト法の枠外に置くことを目的とした法案を提出した。これは前年に出されて廃案となった「キーティング=ウォルター法案」と大差はなかった。一方キーフォーバー上院議員が提出した法案では野球機構などを反トラスト法の適用範囲に含めたうえで4大スポーツの持つ幾つかの面を除外するとしたが、大リーグの1球団が保有する選手の総数を80に限定し、マイナーリーグ地域への放送権の規制は連邦通信委員会が「適度に必要」と認める場合だけ反トラスト法の適用から外すとされた。これに対してフリック・コミッショナーが公聴会の席上で反論し、1球団の保有選手を80名に限定すればメジャーリーグもマイナーリーグも崩壊の危険を免れず、メジャーリーグはマイナーリーグに年間総額で約500万ドルの援助を与えており、さらに選手を買い上げる対価としてさらに約500万ドルが支払われていて、これにスカウトの給料や費用だけでも300万ドルにのぼると主張した。この法案の審議はほとんどされることなく、前年に続いて廃案となった。 ところがキーフォーバー委員長はこの時のフリック・コミッショナーの反駁に逆に反発して、翌1960年3月に再び法案を提出し、一転して野球に対して厳しい姿勢を示した。今度の法案では野球以外の全てのプロスポーツを反トラスト法の枠外に置くとして、野球だけは最高裁判断が出ている保留条項などを除いて、他は全面的に反トラスト法の適用範囲の中に入れるとするものであった。フリックは当然この法案を激しく批判したが、新興コンチネンタルリーグのリッキー会長とシェイ発起人は逆に「キーフォーバー法案」を支持して野球機構を揺さぶり、議会の独占禁止法の動きと新興リーグの立ち上げと自らのリーグ拡張への動きが複雑に絡まり合うことになった。
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アメリカ議会の動き
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「1958年のメジャーリーグベースボール」の記事における「アメリカ議会の動き」の解説
前年1957年2月に連邦最高裁がプロフットボールに対して「フットボール機構の内に含まれる全米を対象とする事業について、このスポーツ企業を反トラスト法の適用範囲の内に置くものである」とする判例が出た。この全てのアメリカを対象とする要素を持つと言えばメジャーリーグも、マイナーリーグの球団を持ち全米を飛び回り、テレビ・ラジオに全国的な野球中継を行う放送網があり、広告は1つの州に収まらず複数の州で広告収入があり、このことで比較されるとフットボールには厳しくベースボールには甘いという指摘がなされて、下院反トラスト委員会のセラ委員長が夏から公聴会を開いて野球が反トラスト法の対象となるか検討を始めた。 1915年のフェデラルリーグの提訴から始まり、長期の裁判を経て1922年に決着した「1922年の最高裁の判例」でも裁判官の間で議論になったのは、野球ビジネスが「もっぱら州で行われる行事」と見なすか、州をまたぐ「州際通商」と見なすかであった。州の行事であればもはや連邦政府が関与する問題ではなく(州政府が関与すべき問題)、連邦政府が独占禁止法を適用できるのはあくまで複数の州をまたぐ「州際通商」でなければならなかった。そして州の間で行う通商ではなく、野球は反トラスト法の適用範囲に入らないとしたのが1922年の最高裁の判例であり、1953年のトゥールソン訴訟でも最高裁は1922年の判例を支持した。この議論は選手に自由がなく意に反してトレードされて従わなければ引退しか選択が無い「保留条項」の問題と絡んでいた。その前年1952年に同じ委員会が独占禁止法に違反しているか調査したうえで保留条項は必要悪であるとして違法とはされず、野球は反トラスト法の適用範囲ではないとした「セラ報告書」を提出してからまだ6年しか過ぎていなかった。 そして1958年1月にこの同じ委員会は保留条項の問題についてチームの実力の平均化を図るために「適度に必要なものである」とする一方で、球場・売店・駐車場などのプロスポーツの商業的な側面のみを反トラスト法の適用を受けるとした妥協的な法案を提出した。しかしこの法案は「セラ法案」と呼ばれたが野球機構から猛烈な反対を受けた。そしてよりメジャーリーグのオーナーの立場に近いケネス・キーティング下院議員(ニューヨーク州選出。この年秋に上院議員に当選し6年後の1964年にロバート・ケネディと議席を争い敗れて引退した。)が、このセラ法案からより適用範囲を狭めた「キーティング=ウォルター法案」を提出して、6月24日にこの法案の方が先に下院で可決された。この「キーティング=ウォルター法案」はその後上院に回されて、7月9日に上院反トラスト委員会(委員長 エステス・キーフォーバー)が7月9日と15日からの5日間にかけて公聴会を開いた。この公聴会にケーシー・ステンゲル(当時のヤンキース監督)、ボブ・フェラー(元インディアンス投手)、ジャッキー・ロビンソン(元ドジャース二塁手)、フォード・フリック(当時のコミッショナー)らが呼ばれて証言をした。コミッショナーはこの「キーティング=ウォルター法案」を支持していたが、結局8月になって廃案となった。 アメリカ議会の動きはこれで終わらなかった。翌1959年になると上院反トラスト委員会のキーフォーバー委員長が、ベースボール・アメリカンフットボール・バスケットボール・アイスホッケーのプロスポーツに対して共通の法律的措置を加え、これまでくすぶっていた独占禁止法に関する問題を解決することが必要だと述べた。これは実は野球機構などを反トラスト法の適用範囲に含めたうえで幾つかの側面については除外することを目指していた。この法案とともに前年に提出したキーティング上院議員(前年は下院議員)が、これらのスポーツを逆に反トラスト法の枠外に置くことを目的とした法案を出した。この上下両院を舞台とした野球機構と反トラスト法との問題の議論は、この後に1960年までえんえんと続いた。
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