コンチネンタルリーグ
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「1959年のメジャーリーグベースボール」の記事における「コンチネンタルリーグ」の解説
本拠地移転の動きが一段落し、フランチャイズを変えた5球団がいずれも新天地で大成功を収めたことは、戦後からマイナー球団を持つ各都市がメジャーリーグの球団の誘致に積極的であったことと、アメリカの議会で野球機構と独占禁止法との議論が深まるなかで出てきた球団数を拡張して東部偏重から全米規模に拡大することを求める動きに刺激されて、1959年になるとヒューストン、ミネアポリスが大リーグの球団を迎える用意があることを明らかにし、さらにジャイアンツとドジャースが出てニューヨークにナショナルリーグの球団が無くなったことに対しニューヨーク市が第三リーグの創設を問題にし始めていた。ここでアメリカンリーグとナショナルリーグのオーナーは5月21日にオハイオ州コロンバスで会議を開き、球団数を増やすリーグの拡張(エクスパンション)ではなく、新しく第三リーグを8球団体制で設立することが望ましいとの見解を出して、その際に必要な確認項目として資格審査で財政の安定した基盤を持つこと、地域的な条件や経済的な義務を果たすこと、フランチャイズとする都市は人口が現在構成しているチームの最少都市(当時の場合はカンザスシティ)より下回らないこと、最低2万5,000人規模の収容力を持つ球場を確保すること、シーズン試合数は1チーム154試合とすること、選手の年俸は現在両リーグが定めている最低年俸額を守りしかも最高額を設けてはならないこと、現在ある「大リーグ協定」「統一選手契約」「年金制度」などの諸条件を受け入れること、新しいリーグの資格申請を行う会議の6ヵ月前及びシーズンが始まる8ヵ月前には8球団が申請書を提出しなければならない、とする10項目を発表した。 そしてこのオーナー会議から2ヵ月後の7月27日に、ニューヨークのホテルで記者会見が行われ「コンチネンタルリーグ」創設が発表された。この新しいリーグの創設に奔走したのは当時38歳のニューヨークの弁護士ウイリアム・A・シェイ(後のニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムは彼の名前に因んでいる)で、この時の発表では既にニューヨーク、ヒューストン、トロント、ミネアポリス=セントポール、デンバーの加盟が決定し、2年後の1961年4月のシーズン開始を目指すとした。そして1ヵ月後の8月18日にコンチネンタルリーグの会長にブランチ・リッキー(カージナルス・ドジャース・パイレーツの元ゼネラルマネージャー)が就任した。カージナルスで最初にマイナー球団を自己の傘下に収めてファーム制度を作り選手の育成システムを確立し、ドジャースでジャッキー・ロビンソンを黒人として初めて採用して人種の壁を破り、1955年にパイレーツを退いて野球界から半ば引退していた辣腕の元ゼネラルマネージャーの復帰であった。その就任会見が終わってすぐにリッキーらは、フォード・フリック(コミッショナー)、ジョー・クローニン(アメリカンリーグ会長)、ウォーレン・ジャイル(ナショナルリーグ会長)、トム・ヨーキー(レッドソックス会長)らと会談して新リーグ設立の趣旨を説明した。 しかしこの時点での加盟予定は5都市で、年末12月になってアトランタ、ダラス=フォートワースが加わり、年明けの1960年1月にバッファローがバッファロー市が経営するインターナショナルリーグの球団をメジャーに昇格させることでようやく8球団となった。
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