カージナルスの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:10 UTC 版)
「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事における「カージナルスの反撃」の解説
セントルイス・カージナルスは、1940年代にリーグ優勝4回・シリーズ制覇3回の時代を経て1950年代は低迷していた。スタン・ミュージアルが首位打者のタイトルを取ってもチームの優勝には結びつかなかった。しかしミュージアルの最後の年であった前年には一塁ビル・ホワイト、二塁フリアン・ハビエル、三塁ケン・ボイヤー、遊撃ディック・グロートが揃ってオールスターに出場し、投手にボブ・ギブソン、レイ・サデツキー、アーニー・ブローリオ、カート・シモンズ、バーニー・シュルツと次第に層が厚くなった。外野にカート・フラッド(後にトレードを拒否し裁判を起こす)、捕手はティム・マッカーバーで固い守備で堅実なチームになった。球団内のゴタゴタが多く、オーナーのガッシー・ブッシュはミュージアルをトレードに出そうとしたフランク・レインGMを辞任させてビング・ディヴァインをGMに就けて有力な黒人選手(ホワイトとフラッド)を獲得した頃からチームは上向き始めていた。そして若手のギブソンの成長でエースとなり、ジョニー・キーンが監督となったが、ここにコンチネンタルリーグの創設に動いた81歳のブランチ・リッキーを顧問としてブッシュが復帰させたことでディヴァインGM・キーン監督とオーナーとの間に亀裂が入った。この年のシーズンが始まって開幕からもたつき首位フィリーズから10ゲーム差の5位に低迷したカージナルスは、アーニー・ブローリオを放出してシカゴ・カブスからルー・ブロックを獲得した。この年のブロックはカブスで52試合・打率.251・本塁打2本・盗塁10の成績で誰も注目されない選手であった。しかしカージナルスに移ってから打率.348・本塁打12本・盗塁33の実績で特に脚が速く巧みな走塁で攻撃の起爆剤となり、打線がつながって得点力が増し、カージナルスの反撃が始まった。ただフロントでは8月にディヴァインGMが解任されボブ・ハウザムがリッキーの推薦でGMに就任し、キーン監督はこの時にシーズンが終わったら監督を解任されることが既に決まったと感じていた。そして9月に入ってからフィリーズの失速とともにカージナルスは連勝を続け、最終戦で優勝を決めた。打点王となったケン・ボイヤー(打率.295・本塁打24本・打点119)がリーグMVに選ばれ、カート・フラッド(打率.311・本塁打5本・打点46)が211安打でロベルト・クレメンテ と並んで最多安打となり、レイ・サデツキーが20勝、ボブ・ギブソンが19勝、カート・シモンズが18勝、37歳のバーニー・シュルツがリリーフでの目覚ましい働きが優勝に至った。 ワールドシリーズではヤンキースと熾烈な争いをして第7戦までもつれたがカージナルスが制覇し、27イニング投げて2勝・奪三振31のギブソンが23打数11安打のティム・マッカーバー捕手を抑えてシリーズMVPに選ばれた。しかしグラウンドでの選手たちの歓喜が続く中で球団内の暗闘も続き、やがて誰も予想もしない結末となった。
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