最後の年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 17:32 UTC 版)
「弦楽四重奏曲 (フォーレ)」の記事における「最後の年」の解説
1923年の冬からは、フォーレは動脈硬化による手足の痺れと半睡状態に見舞われた。年が明けて1924年の春も、次男フィリップの回想によれば、肉体の衰弱のために「陰気で退屈なものであった」という。 しかし、6月20日から約1ヶ月間ディヴォンヌ=レ=バンのグランド・ホテルに滞在したフォーレは、ディヴォンヌの静かで軽やかな空気や部屋のテラスから望めるアルプスの景色に囲まれながら終楽章に着手した。次男フィリップによれば、仕事はフォーレに喜びを与え、彼は自らを立ち直らせたある種の内なる喜悦に浸って毎日を送っていた。7月末に4度目の滞在となるアヌシー=ル=ヴューに移ったフォーレは、9月12日に妻マリーに宛てて次のように報告している。 「昨晩、終楽章を仕上げました。これで四重奏曲は完成です。第1楽章と第2楽章の間にちょっとした新たな楽章を入れようという考えが起こらなければの話ですが……。しかし必ずしも必要なものではないので、少なくとも今のところは苦労してそれを追求する気はありません。」 — 1924年9月12日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙 9月19日、フォーレは肺炎を起こし、長男エマニュエルと次男フィリップが交替で看病に付いた。一命を取り留めたフォーレだったが、視力が衰え、自分の足で立つことができなくなった。 フォーレはこのとき、同行していたマルグリート・アッセルマンに、この作品に関する最後の口述を次のように残している。 「……ロジェ=デュカスに、時間がなかったために記せなかった速度、ニュアンス、及びその他の記号を書き加えてくれるように頼んでください……。私はこの弦楽四重奏曲が、いつも最初の演奏を聴いてくれるデュカス、プジョー、ラロ、ベレーグ、ラルマンらの幾人かの友人たちの前で試演された後に、出版、演奏されることを望みます。私は彼らの判断を信頼しているとともに、この四重奏曲が刊行されるべきか破棄されるべきかの決断も彼らに委ねます……。はじめの二つの楽章は、表情豊かで一貫して変わらぬ様式に基づいています。そして三つ目のものは、私のピアノ三重奏曲の終曲を思わせるような、スケルツォ風の軽快で楽しい曲調を持たねばなりません。」 — 1924年、弦楽四重奏曲についてのフォーレの口述
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