最後の悲劇、再びイタリアへとは? わかりやすく解説

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最後の悲劇、再びイタリアへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:33 UTC 版)

ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「最後の悲劇、再びイタリアへ」の解説

1857年初頭ランダーは気を挫かれ、おもしろくない立場追い込まれていた。裁判沙汰になった件で弁護士から戯言をほざく哀れな老人だと侮辱されたとして声明発表したことから法廷闘争巻き込まれのである。こうして、彼は自分が知る2人女性の間の不毛な諍い関わることになってしまった。彼は、当事者一人であるジェラルディン・フーパーに対して友人ケニョンから遺贈され100ポンド渡したジェラルディンがその半額をもう一方当事者イェスコム夫人渡したことは、ランダーあずかり知らないところであった彼女らがそのために争い、イェスコム夫人ジェラルディン不名誉な理由ランダーから金を受け取ったとして非難したランダー怒り任せてウォルター・サヴェージ・ランダー名誉あるイェスコム夫人』(Walter Savage Landor and the Honourable Mrs Yescombe)という冊子書き、これが名誉毀損問われた。フォースターは、謝罪するようランダー勧めている。1858年ランダーは、警句的・皮肉的攻撃を他の内容紛れ込ませた『W.S.ランダー乾きたる棒の束』(Dry Sticks Fagoted by W. S. Landor)と称する雑文集出したが、これによってさらに名誉毀損問題にされることになった。 その年の6月ランダーは再びイタリア渡り生涯最後6年間を過ごすことになった。彼は自分頼りにしている家族に対して財産贈与するように助言されていた。彼自身は、妻子と共に暮らすことを望んだが、妻子がゲラルデスカ邸宅でみすぼらしい生活を送っていて、彼を歓迎する気がないことを知った。彼は自分邸宅10か月の間みじめに過ごし逃げるようにフィレンツェ行って戻ってくるということ繰り返したしまいには、ほとんど無一文の状態でフィレンツェホテル隠れ住んでいたところを当時カサ・グィディにいたロバート・ブラウニング見つかったブラウニングは、ランダー家族から生活資金得られるように助力し、はじめはシエーナ続いてフィレンツェに居を構えさせた。 ランダーは、自分著作改訂取り組んでおり、個人的にイタリアの統一関心寄せていた。エリザ・リン・リントンとはさかんに手紙やり取りをし、ガリバルディ軍の兵士らの救援売上が役立つよう『空想談話』の加筆進めたアントニー・トロロープフィレンツェ訪れランダー米人女性ケイト・フィールドを紹介、彼女はランダー弟子となる。ランダーはまだなお魅力的であり、威厳があり、思いやりがあり、文学的関心あふれていた。彼はケイトのためにラテン語教えてやり、詩を繰り返し読み最後となる談話作った1861年ブラウニングが妻を看取ったイタリア離れたその後ランダーは時々息子らの訪問受けてはいるものの、外出控えるようになり、気難しく落ち着かなくなっていった。彼は、価値のあるものは少なかったが、絵のコレクション自分死後どうなるかを気にかけていた。また、バース近郊のウィドクーム(英語版)に埋葬されることを望んで墓を用意することも懸案であった1861年から翌年にかけて『空想談話』の数篇を「アセニアム」に発表し1863年には最後の本となる『英語とラテン語による英雄的田園詩そのほか』(Heroic Idyls, with Additional Poems, English and Latin)を発表し、これについてスウィンバーンは「88年の生を経て壮大な感情的力量気高さ意気高さを失わなかった天才最後業績」と評したフォースター名誉毀損問われることを恐れてランダー著書の出版拒み、そのせいで関係が悪化したが、ランダー亡くなる直前二人交流復活している。ランダー生涯でほとんど最後の出来事は、1864年詩人スウィンバーン訪問受けたことであり、スウィンバーンは特にランダー会いたくてフィレンツェ訪れ自作カリュドーンアタランテー』を献呈している。 1864年5月1日ランダー家主女性対し、「もう書くことはないよ。明かり消してカーテン引いてくれたまえ」と言った。それから数か月の後、ランダーフィレンツェ89年生涯静かに閉じた彼の遺体結局ウィドクームではなくフィレンツェ英国人墓地英語版)に埋葬された。近くには友人だったエリザベス・バレット・ブラウニングの墓がある。ランダー夫人の像と息子アーノルド・サヴェージ・ランダーの墓もその「英国人墓地にある。後にフィエーゾレのゲラルデスカ邸宅アイスランド語学者米国人ダニエル・ウィラード・フィスケ(英語版)の住居となり、彼は邸宅を「ランダー邸」と改称したランダーの孫は作家探検家のアーノルド・ヘンリー・サヴェージ・ランダー(英語版)である。 ランダーサウジーコールリッジ親密友人であったワーズワースとの関係は、賞賛からやがてある種敵意へと変わっていった。バイロン卿ランダー嘲笑した罵ったりすることが多かった一方ランダー生前バイロン褒めることは少なかったが、死後はその死を悼み故人賞賛した。弟であるロバート・エイルズ・ランダー(英語版)の高貴ドラマティック作品について、彼は共感こもった賞賛惜しまなかった。

※この「最後の悲劇、再びイタリアへ」の解説は、「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の解説の一部です。
「最後の悲劇、再びイタリアへ」を含む「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事については、「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の概要を参照ください。

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