最後の悲劇、再びイタリアへ
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「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「最後の悲劇、再びイタリアへ」の解説
1857年初頭、ランダーは気を挫かれ、おもしろくない立場に追い込まれていた。裁判沙汰になった件で弁護士から戯言をほざく哀れな老人だと侮辱されたとして声明を発表したことから法廷闘争に巻き込まれたのである。こうして、彼は自分が知る2人の女性の間の不毛な諍いに関わることになってしまった。彼は、当事者の一人であるジェラルディン・フーパーに対して、友人ケニョンから遺贈された100ポンドを渡した。ジェラルディンがその半額をもう一方の当事者イェスコム夫人に渡したことは、ランダーのあずかり知らないところであった。彼女らがそのために争い、イェスコム夫人がジェラルディンを不名誉な理由でランダーから金を受け取ったとして非難した。ランダーは怒りに任せて『ウォルター・サヴェージ・ランダーと名誉あるイェスコム夫人』(Walter Savage Landor and the Honourable Mrs Yescombe)という冊子を書き、これが名誉毀損に問われた。フォースターは、謝罪するようランダーに勧めている。1858年、ランダーは、警句的・皮肉的な攻撃を他の内容に紛れ込ませた『W.S.ランダーの乾きたる棒の束』(Dry Sticks Fagoted by W. S. Landor)と称する雑文集を出したが、これによってさらに名誉毀損が問題にされることになった。 その年の6月、ランダーは再びイタリアに渡り、生涯最後の6年間を過ごすことになった。彼は自分が頼りにしている家族に対して財産を贈与するように助言されていた。彼自身は、妻子と共に暮らすことを望んだが、妻子がゲラルデスカ邸宅でみすぼらしい生活を送っていて、彼を歓迎する気がないことを知った。彼は自分の邸宅で10か月の間みじめに過ごし、逃げるようにフィレンツェに行っては戻ってくるということを繰り返した。しまいには、ほとんど無一文の状態でフィレンツェのホテルに隠れ住んでいたところを、当時カサ・グィディにいたロバート・ブラウニングに見つかった。ブラウニングは、ランダーが家族から生活資金が得られるように助力し、はじめはシエーナ、続いてフィレンツェに居を構えさせた。 ランダーは、自分の著作の改訂に取り組んでおり、個人的にはイタリアの統一に関心を寄せていた。エリザ・リン・リントンとはさかんに手紙のやり取りをし、ガリバルディ軍の兵士らの救援に売上が役立つよう『空想談話』の加筆を進めた。アントニー・トロロープがフィレンツェを訪れ、ランダーに米人女性ケイト・フィールドを紹介、彼女はランダーの弟子となる。ランダーはまだなお魅力的であり、威厳があり、思いやりがあり、文学的関心にあふれていた。彼はケイトのためにラテン語を教えてやり、詩を繰り返し読み、最後となる談話を作った。1861年、ブラウニングが妻を看取った後イタリアを離れた。その後、ランダーは時々息子らの訪問を受けてはいるものの、外出を控えるようになり、気難しく、落ち着かなくなっていった。彼は、価値のあるものは少なかったが、絵のコレクションが自分の死後どうなるかを気にかけていた。また、バースの近郊のウィドクーム(英語版)に埋葬されることを望んで墓を用意することも懸案であった。1861年から翌年にかけて『空想談話』の数篇を「アセニアム」に発表し、1863年には最後の本となる『英語とラテン語による英雄的田園詩そのほか』(Heroic Idyls, with Additional Poems, English and Latin)を発表し、これについてスウィンバーンは「88年の生を経ても壮大な感情的力量と気高さと意気高さを失わなかった天才最後の業績」と評した。フォースターは名誉毀損に問われることを恐れてランダーの著書の出版を拒み、そのせいで関係が悪化したが、ランダーが亡くなる直前に二人の交流は復活している。ランダーの生涯でほとんど最後の出来事は、1864年に詩人スウィンバーンの訪問を受けたことであり、スウィンバーンは特にランダーに会いたくてフィレンツェを訪れ、自作『カリュドーンのアタランテー』を献呈している。 1864年5月1日、ランダーは家主の女性に対し、「もう書くことはないよ。明かりを消して、カーテンを引いてくれたまえ」と言った。それから数か月の後、ランダーはフィレンツェで89年の生涯を静かに閉じた。彼の遺体は結局ウィドクームではなく、フィレンツェ英国人墓地(英語版)に埋葬された。近くには友人だったエリザベス・バレット・ブラウニングの墓がある。ランダー夫人の像と息子アーノルド・サヴェージ・ランダーの墓もその「英国人」墓地にある。後にフィエーゾレのゲラルデスカ邸宅はアイスランド語学者の米国人ダニエル・ウィラード・フィスケ(英語版)の住居となり、彼は邸宅を「ランダー邸」と改称した。ランダーの孫は作家で探検家のアーノルド・ヘンリー・サヴェージ・ランダー(英語版)である。 ランダーはサウジーとコールリッジの親密な友人であった。ワーズワースとの関係は、賞賛からやがてある種の敵意へと変わっていった。バイロン卿はランダーを嘲笑したり罵ったりすることが多かった一方、ランダーも生前のバイロンを褒めることは少なかったが、死後はその死を悼み、故人を賞賛した。弟であるロバート・エイルズ・ランダー(英語版)の高貴でドラマティックな作品について、彼は共感のこもった賞賛を惜しまなかった。
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