最後の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 06:00 UTC 版)
「モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」の記事における「最後の出来事」の解説
1371年にアルギルダスはコンスタンティノープル総主教庁に対して、キエフにスモレンスク、トヴェリ、ノヴォシリ及びニジニ・ノヴゴロドの領域を加えた形で独自の府主教座を設置してくれるよう頼んだ。これは1373年から1375年の間にキプリアンをキエフ=リトアニアの府主教の座に据えることで達成することが出来たが、アルギルダスのこの行為はドミートリーの有志であるアレクシー府主教没後に新たな全ルーシの府主教の擁立を見据えてのことであった。 1375年にミハイルがジョチ・ウルスのヤルリクからヴラディーミル大公位を拝領してトヴェリ軍がトルジョークとウグリチを攻撃するとドミートリーは北東ルーシ、スモレンスク公国、ブリャンスク公国並びにオカ川上流公国群の戦力を加えた軍勢を引き連れてトヴェリに進軍して包囲した。それに続くトヴェリに対するアルギルダスの軍事的行動(結局は衝突することもなく撤退した)に関して歴史家の間では伝統的に1372年の休戦条約を破ってまでのミハイルへの援助は不成功な試みであったと解釈されている。実際にアルギルダスはトヴェリへの遠征軍でもってスモレンスク公国を荒らし回っていた。最終的にミハイルはモスクワ大公の長上権を認め、その反リトアニア同盟に加わることを余儀なくされた。
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