その後の作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:35 UTC 版)
「オンタリオ湖での戦闘」の記事における「その後の作戦」の解説
ヨーが急遽バーリントン湾で艦の修繕をさせる間、事実上チョウンシーがオンタリオ湖を支配した。9月29日から強風が吹いて、チョウンシーはヨーを監視できなかった。ヨーは10月2日にバーリントンを逃げ出した。翌日チョウンシーはヨーが逃げたと思われる方向に出発した。10月5日、7隻の艦船が視認されたが、それらはイギリスの兵士を運ぶ砲艦と非武装スクーナーであることが分かった。1隻が逃亡し、1隻は燃やされたが、チョウンシーは他の5隻(グロウラーとジュリアが含まれていた)を捕獲し、264名の兵士を捕虜にした。 作戦の舞台は短期間、セントローレンス川の川上に移った。アメリカ軍がオンタリオ湖を支配していたので、その年後半に計画するモントリオール攻撃に備えて、ジョージ砦からサケッツ港への陸軍の移動を完了できた。ジェイムズ・ウィルキンソン少将指揮下の陸軍は多くの平底船やその他小さな船で現在のクレイトンに近いフレンチ・クリークに移動しており、マルカスター海軍中佐の指揮するイギリス艦数隻が11月5日までその宿営地や停泊地を砲撃した。このときアメリカ軍砲兵隊が急遽赤熱させた砲弾をブリッグのアール・オブ・モイラに命中させて火を付け、イギリス艦を撃退した。アール・オブ・モイラの乗組員は消火を諦めて脱出し、後になって艦を回収した。 その後アメリカ陸軍はセントローレンス川を下り始めた。チョウンシーの戦隊はイギリス戦隊をキングストンで封鎖して干渉しないようにすることが求められたが、秋の悪天候のために効果的な封鎖が難しく、また川の川上には多くの小島もあった。このことでマルカスターの艦船はキングストンに戻ってジョセフ・ウォントン・モリソン中佐指揮下の分遣隊を乗船させ、アメリカ軍を追って川を下ることが可能になった。11月11日に起きたクライスラー農園の戦いでは、マルカスターの砲艦3隻に支援されたモリソンの部隊がアメリカ軍を破った。 この年の最後の出来事は、ウィリアム・ハリソンの部隊をナイアガラ川からサケッツ港に運んだことであり、ウィルキンソンの部隊と交替した。しかし、ナイアガラの前線には正規軍がいなくなり、イギリス軍はこの機会を利用してナイアガラ砦を占領し、バッファローの戦いに勝利した。
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