その後の佐々木友次伍長とは? わかりやすく解説

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その後の佐々木友次伍長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)

万朶隊」の記事における「その後の佐々木友次伍長」の解説

万朶隊」の佐々木は、一説によれば合計9回の出撃命令受けて 7回出撃(うち敵艦攻撃したのは2回)、もしくは3回出撃行いいずれも生還したが、12月18日最後の出撃失敗終わったのちマラリア発症しこの後二度と出撃することはなかった。一方海軍航空隊では、フィリピンの戦い沖縄戦佐々木上回る15回の特攻出撃行った神風特別攻撃隊白虎隊鈴木善一上等飛行兵曹がいた。鈴木フィリピン特攻出撃何度も繰り返したのち、台湾移動し台湾からも沖縄何度も出撃し、16回目出撃終戦直前1945年8月14日命じられたが、出撃直前中止となって無事に終戦迎えている。 連合軍ルソン島上陸迫っていると考えた第14方面軍司令官山下奉文大将は、マニラ多く民間人居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとするために、第4航空軍撤退要請した。しかし、第4航空軍司令部は、毎日特攻隊見送ってきた悲壮な記憶遺るマニラ見捨てて山に籠れという山下命令強く反発し富永作戦当初からマニラ墓場にすると決めており、「レイテ決戦をやるというか特攻隊出した決戦というからには、国家興亡かかっているから体当りやらせた。それなのに今度ルソン持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊犠牲にしたのかわからなくなる。富永部下顔向け出来んことになる。富永マニラを動かんぞ。マニラ死んで特攻隊お詫びするんだ」と主張してマニラ放棄拒否した富永のほかに、マニラ駐留の第31特別根拠地隊司令官岩淵三次海軍少将)やレイテ沖海戦などでの沈没艦生存者編成され海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊」(マ海防)も「いったい海軍が山に入ってどうするのだ」「陸に上がった河童みたいなものだ」「玉砕覚悟一戦すべきだ、マレーの虎マレーになったぞ」と口々に山下批判してマニラ放棄拒否した富永らが山下命令をきかなかったのは、レイテ作戦当初第4航空軍海軍陸戦隊独立していたが、レイテ作戦末期になって急遽第14方面軍山下指揮下に編入されることとなり、その指揮系統構築連携が不十分で、感情的なしこりがあったことも原因であったこの頃富永は、特攻隊連日見送り続けた精神的な負担と、デング熱高熱症状もあって寝込むことが多くなり従軍看護婦介助を必要としたが、心身衰弱限界達していたことから感情的になることも多く参謀にあたりちらすようになっていた。山下は、陸軍幼年学校からの同期個人的に親しかった第14方面軍参謀長武藤章説得差し向けたが、富永武藤に「航空隊が山に入ってなにをするのだ? 」と反論し武藤富永賛同して燃料航空機もない山中に航空司令部固着しても意味はない。司令部来て山下閣下相談し台湾下がって作戦の自由を得た方がよい」と第4航空軍台湾移動させて戦力再編成勧めるような提案をしている。富永症状重くなる一方であり、心身消耗理由大本営南方軍に対して司令官辞任2度申請していたが、決戦最中司令官交代することはできないとして拒否されている。 年も明けた1945年1月4日武藤再度説得訪れたときには富永病気寝込んでおり、武藤訪問を大変喜び涙ぐみながら手を握ってきた。武藤はそんな富永様子見て多く特攻隊員見送ってきたので、精神的に肉体的に疲労困憊し限界達していると考えた武藤第14方面軍司令部バギオ転移するので、富永体調が許す限り速やかに北方移動するように勧めると、前回面談時にはマニラ撤退強硬に拒否していた富永が、心身ともに衰弱しきっていたこともあって素直に武藤勧め聞いていたという。そして翌1月5日偵察機から、22隻の空母護衛され600隻の大船団が100kmに渡って北上中という報告聞いた富永は、連合軍ルソン島リンガエン湾上陸意図しているのは明らかであると判断、第30戦闘飛行集団などの残存兵力全力挙げて特攻命じ武藤再三渡った説得受け入れて、「山下大将の名誉を傷つけぬ」と述べて1月7日エチアゲへの撤退決めた富永マニラ放棄決めたのは、武藤説得のほかにも、想定以上に陣地の構築進んでいなかったことや、心身的に限界達しつつあったこと、第3船舶輸送司令官稲田正純中将からも、台湾撤退して体勢立て直せという提案があったことも大きな要因となったエチアゲへの撤退後心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長隈部正美少将は、富永退避させることを名目に、第4航空軍司令部台湾撤退させることを計画し幕僚らと協議した。この計画第4航空軍台湾撤退させた後に、戦力補充してフィリピン支援するという計画であったが、隈部は富永同行させるため、「第4航空軍台湾軍司令官隷属し揚子江河口付近から台湾経て比島に渡る航空作戦指揮することとなった。ついては軍司令官病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾飛行していただきたい」という至急電が届いた虚偽報告をしている。富永は、隈部らの虚偽報告聞いて軍司令官結局参謀長意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長所見屈従したのではない。当時精神衰弱の状態において、ひとり幾度熟考した上で決行したのである。」と自らの判断行った述べているが、富永自身精神的に衰弱してくると、マニラ特攻隊員後を追うという決心揺らぎ1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍南部台湾作戦使用して良いとの命令利用して台湾へ一時撤退考えるようになっていた。台湾へ撤退理由としては、戦力立て直しのほかに、第4航空軍参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという。その後、隈部ら参謀台湾後退準備進めるも、第4航空軍台湾利用について直属第14方面軍南方軍相談はしていたが、司令部後退までの承認取っておらず、大本営には相談すらしていなかった。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目台湾行き大本営申請した。やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認電文届いたので、これを富永らは台湾撤退許可解釈し1月16日富永は「九九式軍偵察機」2機に副官だけを乗せて、「隼」4機を護衛につけて台湾向けて出発した。あとから隈部ら参謀続いた司令部台湾逃亡したのち、搭乗員整備兵といった航空要員は、育成困難な特殊技術者でもあるため、優先的に台湾避難させることにした。これには陸海軍協力体制構築され輸送機練習機爆撃機など人員多く乗せることができる機体ルソン島北部トゥゲガラオ飛行場台湾往復してピストン輸送行った。しかし制空権連合軍握られており、航空機では一度輸送できる人数限られていることから、海軍が3隻の駆逐艦救援に出すこととしたが、台湾出てルソン島に向け航行中「梅」空襲により撃沈され、残り2隻も引き返したやむなく海軍潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦準備したが、作戦察知したアメリカ軍潜水艦バットフィッシュ待ち伏せされ呂112呂113撃沈されて、ルソン島到着し航空要員救出成功したのは呂46のみであった。しかし、航空機ピストン輸送呂46救出され航空要員相当数上り日本軍航空史上で未曾有の輸送作戦となった輸送機には、報道班員や、行政長官などの高官なども搭乗したが、第4航空軍司令部幕僚搭乗した機が撃墜されまた、連絡無く台湾澎湖諸島海軍基地上空飛行したため、海軍高角砲同士討ちされた機もあって、兵器部長小沢直治大佐経理部長西兵衛大佐軍医部中留金蔵大佐溝口高級副官などの多く第4空軍幕僚戦死するといった混乱もあった。 佐々木台湾撤退するため、1月20日にはどうにか第4飛行師団司令部のあるエチアゲ到着したが、他の航空要員撤退が進む中でも、公式には戦死扱いであった佐々木には、輸送用航空機搭乗するための証明書が第4飛行師団司令部より発行されず、そのままルソン島取り残された。そこで佐々木台湾へ撤退のために待機していた報道班員とあったが、記者らは南方戦場には似付かわしくない丸々太った色白佐々木見て、すっかり戦死したものと考えていたため「幽霊出たとばかり驚いたが、すぐに状況把握し、「どうです、随分苦労されたのだから、内地1度還っては」と訊ねると、佐々木は、「自分生きていては工合悪い向きある様ですから」「それに生きている特攻隊員なんて話にもなりませんよ」と高笑いしながら山中消えていったという。しかし、新聞記者の前では気丈に振る舞った佐々木であったが、内心は「もう俺も、これで日本には帰れないな」と思って落ち込んでいた。佐々木存在極秘事項として隠されていたという主張もあるが、作家大佛次郎知り合い新聞記者から佐々木の話を聞かされており、1945年8月5日日記に「特攻隊二階進級上聞達した佐々木曹長というのは爆弾落とした不時着しルソン島生きていた。しかしこれは上聞まで達したことで自爆したことになっており、帰還望みなく部隊残飯給与受けて生きている。一旦死んだ男なのでこれを使うことはどの司令官もできぬ」と書いているなど、極秘というほど隠されていたわけではなかった。 佐々木似たような境遇特攻隊員生存者らと臨時集成飛行隊として編成されたが、集成飛行隊には1機の稼働機もなかった。他にルソン島取り残され多く第4航空軍将兵は、第14方面軍山下指揮下に入って地上戦を戦うこととなった十分な装備はなかったが、決し烏合の衆ではなくルソン残った第4航空師団参謀長猿渡作戦指導のもとで、高い士気団結作り上げて激戦地となったバレテ峠やサラクサク峠では「東京救おう」を合い言葉に、山下指揮通り徹底した拘束持久作戦戦って連合軍長い期間足止めしたが、激戦飢餓病気により多く将兵命を落とした一方佐々木臨時集成飛行隊には地上戦を戦う意志はなく、連合軍エチアゲに迫ると、佐々木は戦うこと無くアメリカ軍避けて山中逃げ込み自作した粗末な小屋自給自足の生活を送り飢餓病気苦しみながらもどうにか終戦まで生存しアメリカ軍投降し捕虜となった

※この「その後の佐々木友次伍長」の解説は、「万朶隊」の解説の一部です。
「その後の佐々木友次伍長」を含む「万朶隊」の記事については、「万朶隊」の概要を参照ください。

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