その後の佐々木友次伍長
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「万朶隊」の佐々木は、一説によれば合計9回の出撃命令を受けて 7回出撃(うち敵艦を攻撃したのは2回)、もしくは3回の出撃を行い、いずれも生還したが、12月18日の最後の出撃が失敗に終わったのちマラリアを発症し、この後二度と出撃することはなかった。一方、海軍航空隊では、フィリピンの戦いと沖縄戦で佐々木を上回る15回の特攻出撃を行った神風特別攻撃隊「白虎隊」鈴木善一上等飛行兵曹がいた。鈴木はフィリピンで特攻出撃を何度も繰り返したのち、台湾に移動し、台湾からも沖縄に何度も出撃し、16回目の出撃は終戦直前の1945年8月14日に命じられたが、出撃直前に中止となって無事に終戦を迎えている。 連合軍のルソン島上陸が迫っていると考えた第14方面軍司令官の山下奉文大将は、マニラは多くの民間人が居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとするために、第4航空軍に撤退を要請した。しかし、第4航空軍司令部は、毎日特攻隊を見送ってきた悲壮な記憶が遺るマニラを見捨てて山に籠れという山下の命令に強く反発し、富永も作戦当初からマニラを墓場にすると決めており、「レイテで決戦をやるというから特攻隊を出した。決戦というからには、国家の興亡がかかっているから体当りをやらせた。それなのに今度はルソンで持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊を犠牲にしたのかわからなくなる。富永が部下に顔向け出来んことになる。富永はマニラを動かんぞ。マニラで死んで、特攻隊にお詫びするんだ」と主張してマニラ放棄を拒否した。富永のほかに、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)やレイテ沖海戦などでの沈没艦の生存者で編成された海軍陸戦隊「マニラ海軍防衛隊」(マ海防)も「いったい海軍が山に入ってどうするのだ」「陸に上がった河童みたいなものだ」「玉砕覚悟で一戦すべきだ、マレーの虎がマレーの猫になったぞ」と口々に山下を批判してマニラ放棄を拒否した。富永らが山下の命令をきかなかったのは、レイテ作戦当初は第4航空軍も海軍陸戦隊も独立していたが、レイテ作戦の末期になって急遽第14方面軍山下の指揮下に編入されることとなり、その指揮系統の構築や連携が不十分で、感情的なしこりがあったことも原因であった。 この頃の富永は、特攻隊を連日見送り続けた精神的な負担と、デング熱の高熱の症状もあって寝込むことが多くなり従軍看護婦の介助を必要としたが、心身衰弱が限界に達していたことから感情的になることも多く、参謀らにあたりちらすようになっていた。山下は、陸軍幼年学校からの同期で個人的にも親しかった第14方面軍参謀長武藤章を説得に差し向けたが、富永は武藤に「航空隊が山に入ってなにをするのだ? 」と反論し、武藤も富永に賛同して「燃料も航空機もない山中に航空司令部が固着しても意味はない。司令部に来て山下閣下と相談し、台湾に下がって作戦の自由を得た方がよい」と第4航空軍を台湾に移動させて戦力の再編成を勧めるような提案をしている。富永の症状は重くなる一方であり、心身の消耗を理由に大本営や南方軍に対して司令官の辞任を2度も申請していたが、決戦の最中に司令官を交代することはできないとして拒否されている。 年も明けた1945年1月4日に武藤が再度説得に訪れたときには、富永は病気で寝込んでおり、武藤の訪問を大変喜び涙ぐみながら手を握ってきた。武藤はそんな富永の様子を見て、多くの特攻隊員を見送ってきたので、精神的にも肉体的にも疲労困憊して限界に達していると考えた。武藤は第14方面軍の司令部はバギオに転移するので、富永も体調が許す限り速やかに北方に移動するように勧めると、前回の面談時にはマニラ撤退を強硬に拒否していた富永が、心身ともに衰弱しきっていたこともあって素直に武藤の勧めを聞いていたという。そして翌1月5日に偵察機から、22隻の空母に護衛された600隻の大船団が100kmに渡って北上中という報告を聞いた富永は、連合軍がルソン島リンガエン湾上陸を意図しているのは明らかであると判断、第30戦闘飛行集団などの残存兵力で全力を挙げての特攻を命じ、武藤の再三に渡った説得を受け入れて、「山下大将の名誉を傷つけぬ」と述べて、1月7日にエチアゲへの撤退を決めた。富永がマニラ放棄を決めたのは、武藤の説得のほかにも、想定以上に陣地の構築が進んでいなかったことや、心身的に限界に達しつつあったこと、第3船舶輸送司令官稲田正純中将からも、台湾に撤退して体勢を立て直せという提案があったことも大きな要因となった。 エチアゲへの撤退後、心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部正美少将は、富永を退避させることを名目に、第4航空軍司令部を台湾に撤退させることを計画し幕僚らと協議した。この計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するという計画であったが、隈部は富永を同行させるため、「第4航空軍は台湾軍司令官に隷属し、揚子江河口付近から台湾を経て比島に渡る航空作戦を指揮することとなった。ついては軍司令官は病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾に飛行していただきたい」という至急電が届いたと虚偽の報告をしている。富永は、隈部らの虚偽の報告を聞いて「軍司令官は結局、参謀長の意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長の所見に屈従したのではない。当時の精神衰弱の状態において、ひとり幾度が熟考した上で決行したものである。」と自らの判断で行ったと述べているが、富永自身も精神的に衰弱してくると、マニラで特攻隊員の後を追うという決心が揺らぎ、1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍は南部台湾を作戦に使用して良いとの命令を利用して、台湾への一時撤退を考えるようになっていた。台湾への撤退の理由としては、戦力の立て直しのほかに、第4航空軍の参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという。その後、隈部ら参謀は台湾後退の準備を進めるも、第4航空軍の台湾利用については直属の第14方面軍や南方軍に相談はしていたが、司令部後退までの承認は取っておらず、大本営には相談すらしていなかった。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請した。やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを富永らは台湾撤退許可と解釈し、1月16日、富永は「九九式軍偵察機」2機に、副官だけを乗せて、「隼」4機を護衛につけて台湾に向けて出発した。あとから隈部ら参謀も続いた。 司令部が台湾に逃亡したのち、搭乗員や整備兵といった航空要員は、育成が困難な特殊技術者でもあるため、優先的に台湾に避難させることにした。これには陸海軍の協力体制が構築され、輸送機、練習機、爆撃機など人員を多く乗せることができる機体がルソン島北部トゥゲガラオ飛行場と台湾を往復してピストン輸送を行った。しかし制空権は連合軍に握られており、航空機では一度に輸送できる人数が限られていることから、海軍が3隻の駆逐艦を救援に出すこととしたが、台湾を出てルソン島に向け航行中に「梅」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。やむなく海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦バットフィッシュに待ち伏せされ、呂112と呂113が撃沈されて、ルソン島に到着し航空要員の救出に成功したのは呂46のみであった。しかし、航空機のピストン輸送と呂46に救出された航空要員は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大輸送作戦となった。輸送機には、報道班員や、行政長官などの高官なども搭乗したが、第4航空軍司令部幕僚が搭乗した機が撃墜され、また、連絡無く台湾澎湖諸島の海軍基地上空を飛行したため、海軍の高角砲で同士討ちされた機もあって、兵器部長小沢直治大佐、経理部長西田兵衛大佐、軍医部長中留金蔵大佐や溝口高級副官などの多くの第4空軍幕僚が戦死するといった混乱もあった。 佐々木も台湾に撤退するため、1月20日にはどうにか第4飛行師団司令部のあるエチアゲに到着したが、他の航空要員の撤退が進む中でも、公式には戦死扱いであった佐々木には、輸送用の航空機に搭乗するための証明書が第4飛行師団司令部より発行されず、そのままルソン島に取り残された。そこで佐々木は台湾への撤退のために待機していた報道班員とあったが、記者らは南方の戦場には似付かわしくない、丸々と太った色白の佐々木を見て、すっかり戦死したものと考えていたため「幽霊が出た」とばかりに驚いたが、すぐに状況を把握し、「どうです、随分苦労されたのだから、内地に1度還っては」と訊ねると、佐々木は、「自分が生きていては工合悪い向きもある様ですから」「それに生きている特攻隊員なんて話にもなりませんよ」と高笑いしながら山中に消えていったという。しかし、新聞記者の前では気丈に振る舞った佐々木であったが、内心は「もう俺も、これで日本には帰れないな」と思って落ち込んでいた。佐々木の存在は極秘事項として隠されていたという主張もあるが、作家の大佛次郎は知り合いの新聞記者から佐々木の話を聞かされており、1945年8月5日の日記に「特攻隊で二階級進級上聞に達した佐々木曹長というのは爆弾を落とした後不時着しルソン島で生きていた。しかしこれは上聞まで達したことで自爆したことになっており、帰還の望みなく部隊の残飯給与を受けて生きている。一旦死んだ男なのでこれを使うことはどの司令官もできぬ」と書いているなど、極秘というほど隠されていたわけではなかった。 佐々木は似たような境遇の特攻隊員の生存者らと臨時集成飛行隊として編成されたが、集成飛行隊には1機の稼働機もなかった。他にルソン島の取り残された多くの第4航空軍将兵は、第14方面軍の山下の指揮下に入って地上戦を戦うこととなった。十分な装備はなかったが、決して烏合の衆ではなく、ルソンに残った第4航空師団参謀長猿渡の作戦指導のもとで、高い士気で鉄の団結を作り上げて、激戦地となったバレテ峠やサラクサク峠では「東京を救おう」を合い言葉に、山下の指揮通り、徹底した拘束持久作戦を戦って、連合軍を長い期間足止めしたが、激戦と飢餓や病気により多くの将兵が命を落とした。一方、佐々木ら臨時集成飛行隊には地上戦を戦う意志はなく、連合軍がエチアゲに迫ると、佐々木は戦うこと無くアメリカ軍を避けて山中に逃げ込み、自作した粗末な小屋で自給自足の生活を送り、飢餓と病気に苦しみながらもどうにか終戦まで生存し、アメリカ軍に投降して捕虜となった。
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