レイテ沖海戦とは? わかりやすく解説

レイテ沖海戦】(れいておきかいせん)

戦闘概要
戦争太平洋戦争大東亜戦争
年月日1944年10月23日25日
場所フィリピン周辺海域
交戦勢力大日本帝国
アメリカオーストラリア
結果アメリカ軍圧倒的勝利日本海軍連合艦隊組織戦闘能力喪失
司令官日本海軍帝国海軍第一遊撃部隊指揮官 栗田健男中将
帝国海軍第一遊撃部隊第三指揮官 西村祥治中将
帝国海軍機動部隊司令 小沢治三郎中将
連合国軍米国海軍第3艦隊第38機動部隊司令 マーク・A・ミッチャー中将
米国海軍第7艦隊戦艦部隊指揮官 ジェシー・B・オルデンドルフ少将
米国海軍第77.4任務司令 クリフトンA・Fスプレーグ少将
戦力日本海軍航空母艦4隻、戦艦9隻、重巡13隻、軽巡6隻 他
連合国軍航空母艦9隻、軽空母8隻、護衛空母18隻、戦艦12隻、重巡11隻、軽巡15隻 他
損害日本海軍航空母艦4隻、戦艦3隻、重巡6隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻など
連合国軍航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦2隻など

1944年10月23日から25日にかけて、フィリピン及び同周辺海域行われた一連の戦闘総称で、シブヤン海海戦スリガオ海峡海戦エンガノ岬沖海戦サマール沖海戦4つ海戦総称してレイテ沖海戦」という。
これは日本アメリカの主攻目標レイテ島またはレイテ湾であったため、この名がついた。

連合軍の作戦名はキングⅡ作戦レイテ島奪還目的とし、日本軍の作戦名は捷一号作戦で、アメリカ軍進攻阻止目的とした。
日本海軍艦隊戦力はこの海戦での敗北最後に事実上壊滅し以後大規模かつ組織的活動不可となった

特筆すべき出来事

この戦いでは、世界軍事史特筆すべき出来事起きている。

参加兵力(日本軍)

第二艦隊(旗艦:重巡「愛宕」→戦艦「大和」)

第三艦隊(空母艦載機116機、旗艦:空母「瑞鶴」→軽巡「大淀」)

第六艦隊

第五基地航空部隊

第六基地航空隊

南西方面艦隊

参加兵力(連合軍)

第3艦隊(旗艦:戦艦「ニュージャージー」)

第34任務部隊

潜水艦部隊

第7艦隊

南西太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将旗艦軽巡ナッシュビル」)

第70任務部隊

第77任務部隊


レイテ沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/13 03:57 UTC 版)

レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、英語: Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月20日から25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍アメリカ及びオーストラリア両海軍からなる連合軍との間で交わされた一連の海戦の総称である。フィリピン奪回を目指して侵攻する連合軍を日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生した。




「レイテ沖海戦」の続きの解説一覧

レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:03 UTC 版)

丁字戦法」の記事における「レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)」の解説

レイテ沖海戦で西村艦隊戦艦山城」「扶桑」、重巡洋艦最上」、駆逐艦4隻の合計7隻)がスリガオ海峡からレイテ湾夜間突入する際に、アメリカ海軍ジェシー・B・オルデンドルフ少将率い戦艦部隊戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻の合計79隻)が丁字戦法待ちうけ、魚雷及びレーダー射撃による波状攻撃で、駆逐艦時雨」を除く全艦を撃沈したアメリカ軍損害魚雷艇隊の損害10隻にとどまった西村艦隊壊滅的な最期は、海戦史中でも最も悲惨な殲滅戦となったまた、戦艦同士による砲撃戦が行われた最後海戦となった

※この「レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)」の解説は、「丁字戦法」の解説の一部です。
「レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)」を含む「丁字戦法」の記事については、「丁字戦法」の概要を参照ください。


レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:57 UTC 版)

山城 (戦艦)」の記事における「レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)」の解説

24日午後7時頃、最上と第4駆逐隊満潮山雲朝雲)は掃討隊として先行した午後11時、時雨カミギン島北方アメリカ軍魚雷艇との交戦報告する魚雷艇1隻が時雨砲撃損傷したのみで双方主な戦果はなく、魚雷艇煙幕展開して避退したが、オルデンドルフ提督への通報1時間遅れた受信0026)。10月25日午前0時前後西村部隊掃討隊は魚雷艇3隻と交戦被害無かった一連の戦闘で、アメリカ軍魚雷艇39隻のうち30隻が戦闘参加魚雷34本(海戦全体で160本とも)を発射したが、確実に挙げた戦果志摩艦隊軽巡洋艦阿武隈中破のみである。1時、西村部隊は「〇一三〇『スリガオ海峡南口通過レイテ』湾ニ突入魚雷艇数隻見タル敵情不明」(第二戦機密第250100番電)と報告栗田艦隊受信2時20分)。1時30分、掃討隊が西村部隊本隊合流。2時になると針路真北にとり、突入態勢をとった。同時刻、西村部隊アメリカ魚雷艇群が砲雷撃を交わしたが、双方とも戦果はなかった。一連の戦闘で、魚雷艇1隻(PT493)が大破翌朝沈没10隻が損傷し、6名が戦死したアメリカ軍魚雷艇群の攻撃切り抜けた西村部隊は、先頭から満潮朝雲山城扶桑最上一列並び山城左舷1.5kmに時雨、右同距離に山雲という単縦陣形成した午前2時50以降時雨はディガナット島寄り駆逐艦3隻発見報告西村司令官探照灯による照射攻撃命じと共に単縦陣令し満潮朝雲山雲時雨山城扶桑最上という完全な単縦陣形成した西村部隊3時10前後砲撃開始したアメリカ軍は、海峡東側西村部隊右前方)を進む第54水雷戦隊3隻(リメイ、マクゴーワン、メルビン)が魚雷27本を発射海峡西側西村部隊左前方)を進む第108駆逐隊2隻(マクダーマット、モンセン)が魚雷20本を発射アメリカ軍水雷戦隊は計47本の魚雷発射した後、西村部隊照明弾照らし出されたものの離脱成功した午前3時10分頃、扶桑被雷して落伍その後爆沈した。離脱した扶桑位置最上がつき、山城続行した西村司令官扶桑落伍に気づかず、扶桑健在判断したまま命令発していた。逆に時雨脱落した戦艦山城戦闘可能な戦艦扶桑判断していた。 3時33分 - 3時40分、最上山城の左舷水柱2本が立つのを確認し艦首付近に魚雷命中認め3時35分に山城の左舷火災発生しているのを確認した護衛駆逐艦山雲轟沈満潮被雷して航行不能朝雲艦首切断という大損害を受けて次々落伍した3時25分、アメリカ軍24水雷戦隊駆逐艦6隻が戦闘加わり駆逐艦キレン山城魚雷1本を命中させた。数本魚雷時雨艦底通過していった。西村栗田艦隊志摩艦隊対し3時30分に「スリガオ水道北口両側 敵d(駆逐艦魚雷艇アリ 味方d2被雷遊弋中 山城被雷1戦闘航海支障ナシ」(第二戦機密第250330番電)を発信した栗田艦隊受信0415分)。 この時点戦列維持していたのは、山城中央)・最上(左)・時雨(右)の3隻のみであった3時40分、西村司令官山城から「われ魚雷攻撃をうく、各艦はわれをかえりみず前進し、敵を攻撃すべし」と命令した。これが山城からの最後の命令となった。 しかし、3時51オルデンドルフ少将より全ての巡洋艦に対して射撃開始下令され、デンバー3時51分に距離14,447mより山城目標砲撃開始したのを皮切りにミネアポリスコロンビア同一目標に対して射撃開始しポートランドもそれに続いた。更に3時53分には戦艦部隊の内ウエスト・バージニアが距離 20,848mより射撃開始し3時55分にはテネシーカリフォルニアもそれに続き射撃始め、各艦は許される限りAP弾全て山城に対して発射したアメリカ軍戦艦6隻(ペンシルバニア発砲せず)の主砲発射弾数は計272発、アメリカ軍巡洋艦部隊8インチ砲・6インチ計約3千発を発射した記録されている。既に1本の魚雷を受け速力が12ktに低下した山城艦橋付近に命中した敵弾により炎上最上艦橋への命中弾で艦長航海長戦死するなど戦闘力を喪った。なお時戦闘詳報では3時55分に炎上航行不能となった戦艦扶桑としているが、実際に山城であった同時刻、アメリカ軍の第56水雷戦隊駆逐艦9隻は山城速力落とし針路北から西に変えるのをレーダー探知第1小隊ニューコムアルバート・Wグラントリチャード・P・リアリーの3隻の駆逐艦は、山城並走しつつ距離約5580mで各艦魚雷5本(計15本)を発射4時1130秒2つ爆発音認めた山城副砲応戦したが、アルバート・Wグラント命中弾を与えたに留まった。 山城艦橋にいた江崎主計長によれば午前3時30分頃に1本目魚雷山城の左舷後部命中した後部火薬庫爆発の危険が生じた第五第六主砲火薬庫注水が行われ、速力低下し始めたその頃から艦砲射撃を受け始め艦橋付近に火災発生し第三砲塔以下は使用不能となったその後第一、二砲塔のみで応戦中、左舷中央部魚雷1本が命中一時速力が5ktに低下したものの停止するには至らず速力は12ktに回復艦内通信遮断)、3本目の魚雷右舷機関室命中する山城艦首南西向けて停止停止唯一健在だった1番砲塔のみで応戦していた所、最後に4本目魚雷右舷命中取舵転舵したまま急速に右舷傾斜しはじめた』という。 西村司令官安藤先任参謀に「我レイテ湾に向け突撃玉砕す」の電文作成指示を出すのを江崎目撃しているが、この電文栗田艦隊に届かなかったか、山城通信能力を既に喪失していたと見られるその後総員退去命じられたが、下令3分後の4時19分には横転して艦尾から沈没西村司令官篠田艦長山城運命を共にした。 山城の沈没後も戦場離脱努力していた最上避退中に第二遊撃部隊志摩清英中将旗艦那智衝突、さらに9時前後空襲を受け航行不能となり、曙の手によって雷撃処分された。また朝雲12ノット退避していたが、追撃してきたデンバーコロンビアの2隻の軽巡洋艦、クラクストン、コニーソーンの3隻の駆逐艦捕捉されてしまい、7時21分に撃沈された。西村部隊所属艦のうち、時雨のみが27日になってブルネイ帰着した

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