第52駆逐隊
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11月15日、日本海軍は松型駆逐艦5隻(檜、桑、杉、樫、樅)により第52駆逐隊を新編した。駆逐隊司令には11月29日付で岩上次一大佐(当時、第7駆逐隊司令。海兵50期)が任命された。11月23日付で、十一水戦旗艦は「檜」から「楓」に変更された。11月25日付で第52駆逐隊は、対潜機動部隊の第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入された。 同日25日、昭南に向かうヒ83船団を、空母「海鷹」と駆逐艦5隻(卯月型〈夕月、卯月〉、松型〈樅、檜、榧〉)および海防艦複数隻などで護衛して門司を出撃する。高雄到着後、第30駆逐隊はヒ83船団部隊と別れる。他艦は12月3日に高雄を出港して馬公経由で呉に帰投した。 12月中旬、第52駆逐隊(檜、樅)は白露型駆逐艦「時雨」とともに、マニラ方面へ特攻兵器桜花と陸軍部隊を輸送する任務に就く空母「雲龍」を護衛することになった。12月17日、緊急輸送部隊4隻(雲龍、檜、樅、時雨)は呉を出撃する。19日夕刻、「雲龍」は東シナ海でアメリカ潜水艦レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の攻撃により沈没する。「雲龍」沈没後から反撃を開始し、約46メートル、次いで約70メートルの深度に潜むレッドフィッシュに対して12発の爆雷を投下。二度目の攻撃では爆雷9発を投下して機械や乗組員1名を負傷させ、レッドフィッシュはこれ以上の哨戒を断念して真珠湾に戻っていった。20日朝、舵故障となった「時雨」は佐世保に向かった。「時雨」と別れた松型2隻(檜、樅)は高雄に入港し、12月22日出港して24日にマニラへ到着した。同時期には、第三十一戦隊の新司令部もマニラに進出した。 「檜」と「樅」はマニラとカムラン湾、サンジャックとの間で輸送任務に従事した。12月28日、「檜」と「樅」は第四航空戦隊の航空戦艦2隻(日向、伊勢)から燃料を補給した。12月30日、礼号作戦に参加した姉妹艦(杉、樫、榧)がサンジャックに到着した。第三十一戦隊旗艦は「樅」から「樫」になった。12月31日、52駆(檜、樅)は特設給糧船「生田川丸」(元イタリア船カリテア、4,013トン)を護衛してサンジャックを出港した。 1945年(昭和20年)1月4日夜、3隻はマニラに到着した。この時ルソン島西岸部にはリンガエン湾を目指すアメリカ艦隊と輸送船団が、幾度かの神風特別攻撃隊の攻撃に遭いながらも北上中だった。1月5日、南西方面艦隊は、司令部をマニラからバギオに移した。南西方面艦隊司令部は3日に第43駆逐隊と第52駆逐隊を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)に編入していたが、5日午前11時20分に52駆(檜、樅)の西方避退を命じた。52駆(檜、樅)は第九三三航空隊の整備兵などを乗せた「生田川丸」を連れてマニラを出港、カムラン湾に撤退することになった。ところが同5日16時15分、南西方面部隊は、第52駆逐隊に連合軍上陸船団を攻撃するよう命じた。大川内長官は礼号作戦の戦果に鑑み、第三十一戦隊の松型駆逐艦に対し、アメリカ軍輸送船団への殴りこみ攻撃を命令したのである。 「生田川丸」や病院船「第二氷川丸」(元オランダ病院船オプテンノール)などは、マニラを脱出して西方にむかった。一方の52駆(檜、樅)は掃海担当のアメリカ軍(第77.6部隊)の背後に躍り出て第77.6部隊を驚かせた。第77.6部隊を護衛していたオーストラリア海軍スループのワレーゴ (HMAS Warrego, U73) とガスコーニュ (HMAS Gascoyne, K354) 、助太刀に来たアメリカ駆逐艦ベニオン(英語版) (USS Bennion, DD-662) と午後3時40分頃から交戦を開始するが、約一時間の砲戦で双方ともさしたる戦果も被害もなかった。この戦闘中に、南西方面部隊から突撃命令が出された。避退後間もなく、第77任務部隊の護衛空母から発進した艦上機の攻撃が始まる。17時以降、被弾した「檜」は航行不能になった。直撃弾1と至近弾により、戦死21名と重傷約50名という被害を出す。機関部にも損傷を受けていた。「檜」を掩護していた姉妹艦「樅」は、19時10分に撃沈された。残された「檜」は潜水艦の雷撃や夜間空襲を受けたが被害はなく、応急修理で12ノットの速力が出るまでに回復させてマニラに帰投した。 1月6日朝、「檜」はマニラに入港した。同6日夕刻、連合艦隊は南西方面部隊に対し、アメリカ軍上陸船団の殲滅を命じた。1月7日午後、満身創痍の「檜」は再度サンジャックへの脱出を試みてマニラを出港する。しかし、リンガエン湾へ向かう輸送船団のうちサン・ファビエン上陸に派遣された輸送船団と遭遇。その護衛艦艇の内の駆逐艦チャールズ・オースバーン (USS Charles Ausburne, DD-570) がレーダーで「檜」を捉えて調査に向かい、照明弾で「檜」を照らし出した。チャールズ・オースバーンは「檜」に対して砲撃を行い、その間別の駆逐艦ブレイン (USS Braine, DD-630) が「檜」を照らし出した。「檜」は東方へ逃走するも砲火を散々浴びた末に爆発を起こし、後部から沈没していった。「檜」も反撃したが、チャールズ・オースバーンには命中弾はなかった。また、この際米駆逐艦から「檜」の魚雷発射に伴うものと思われる発光が目撃されており、仮に事実ならばこの戦闘が日本海軍水上艦艇最後の魚雷戦となるのではないかとの指摘がある。駆逐艦ラッセル (USS Russell, DD-414) が生存者を捜索したものの発見できず、岩上52駆司令、駆逐艦長山口浩少佐以下乗員全員が戦死した。日本側は「檜」の最期を確認しておらず「行方不明」と記録している。 4月10日、除籍。松型駆逐艦と、第52駆逐隊からも削除された。
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第52駆逐隊
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11月15日、日本海軍は松型駆逐艦5隻(樅、桑、杉、樫、檜)で第52駆逐隊を編成した。第52駆逐隊司令には岩上次一大佐、海兵50期。当時、第7駆逐隊司令)が補職された。11月25日付で第52駆逐隊は第五艦隊隷下の第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入された。 同25日、昭南に向かうヒ83船団を、空母「海鷹」と駆逐艦5隻(卯月型〈夕月、卯月〉、松型〈樅、檜、榧〉)および海防艦複数隻などで護衛して門司を出撃する。高雄到着後、第30駆逐隊はヒ83船団部隊と別れる。他艦は12月3日に高雄を出港して馬公経由で呉に帰投した。 12月中旬、第52駆逐隊(檜、樅)は白露型駆逐艦「時雨」とともに、マニラ方面へ特攻兵器桜花と陸軍部隊を輸送する任務に就く空母「雲龍」を護衛することになった。12月17日、緊急輸送部隊4隻(雲龍、檜、樅、時雨)は呉を出撃する。19日夕刻、「雲龍」は東シナ海でアメリカ潜水艦レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の攻撃を受け、沈没した。「檜」の爆雷攻撃でレッドフィッシュは損傷し、ハワイに帰投した。20日朝、舵故障を起こした「時雨」は佐世保へむかった。 内地へ帰投する「時雨」と別れた松型2隻(檜、樅)は、高雄に入港したあと12月22日に出港し、24日マニラに到着した。同地には、新任の第三十一戦隊司令官鶴岡信道少将(海兵43期)と司令部が進出していた。12月24日夜、第三十一戦隊司令部は「樅」に将旗を掲げ、松型2隻(樅、檜)はマニラから中国大陸沿岸カムラン湾に移動した。27日、サンジャックに移動する。28日、「樅」と「樫」は第四航空戦隊の航空戦艦2隻(日向、伊勢)から燃料を補給した。29日、「樅」はサイゴンとサンジャックを往復した。30日、礼号作戦に参加した姉妹艦(杉、樫、榧)もサンジャックに到着した。同日、第三十一戦隊司令部は「樅」から「樫」に旗艦を変更した。 12月31日、第52駆逐隊(檜、樅)は特設給糧船「生田川丸」(元イタリア船カリテア、4,013トン)を護衛してベトナムのサンジャックを出港した。1945年(昭和20年)1月4日夜、3隻はマニラに到着した。この時ルソン島西岸部にはリンガエン湾を目指すアメリカ艦隊と輸送船団が、幾度かの神風特別攻撃隊の攻撃に遭いながらも北上中だった。1月5日、南西方面艦隊は、司令部をマニラからバギオに移した。南西方面艦隊司令部は3日に第43駆逐隊と第52駆逐隊を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)に編入していたが、5日午前11時20分に52駆(檜、樅)の西方避退を命じた。52駆(檜、樅)は第九三三航空隊の整備兵などを乗せた「生田川丸」を連れてマニラを出港、カムラン湾に撤退することになった。ところが同5日16時15分、第52駆逐隊に連合軍上陸船団を攻撃するよう命じた。大川内長官は礼号作戦の戦果に鑑み、第三十一戦隊の松型駆逐艦に対し、アメリカ軍輸送船団への殴りこみ攻撃を命令したのである。 「生田川丸」や病院船「第二氷川丸」(元オランダ病院船オプテンノール)などは、マニラを脱出して西方へむかう。一方の52駆(檜、樅)は、掃海を担当していたアメリカ軍(第77.6部隊)の背後に躍り出て第77.6部隊を驚かせた。第77.6部隊を護衛していたオーストラリア海軍スループのワレーゴ (HMAS Warrego, U73) とガスコーニュ (HMAS Gascoyne, K354) 、助太刀に来たアメリカ駆逐艦ベニオン(英語版) (USS Bennion, DD-662) と午後3時40分頃から交戦を開始するが、約一時間の砲戦で双方ともさしたる戦果も被害もなかった。戦闘中に南西方面部隊から突撃命令が出された。避退後間もなく、第77任務部隊の護衛空母から発進した艦上機の攻撃が始まる。17時過ぎ、直撃弾を受けた「檜」は航行不能になった。「樅」は舵を損傷した後の19時10分、航空魚雷が命中して沈没した。3月10日、「樅」は除籍される。松型駆逐艦、第52駆逐隊から削除された。
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