1945年の行動
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「杉 (松型駆逐艦)」の記事における「1945年の行動」の解説
1945年(昭和20年)1月1日、サンジャックを出港して香港経由で1月7日に台湾高雄に到着した。なお1月6日付で「杉」は第52駆逐隊の司令駆逐艦に指定された。8日朝、南西方面艦隊は第三十一戦隊に麾下3隻(梅、樫、杉)のルソン島リンガエン湾突入を促した。9日朝、南西方面艦隊は水上部隊のリンガエン湾突入をあきらめたので、高雄で修理中の「榧」は舞鶴へ帰投し、香港で修理中の「梅」も高雄へ移動した。1月10日、南西方面部隊指揮官(南西方面艦隊長官)は各部隊の任務を変更した。第三十一戦隊(司令官鶴岡信道少将)に対し「警戒部隊ハ指揮官所定ニ依リ台湾海峡及呂栄海峡方面ニ於ケル敵潜水艦掃討ヲ行フト共ニ 台湾、呂栄間ノ作戦輸送ニ任ズベシ」と命じたのである。「杉」は高雄で修理を続けていたが、レーダーや方位磁針の修理が出来ない事から、佐世保への回航が決まる。 1月21日、高雄で第38任務部隊艦上機の空襲を受け、松型3隻(梅、樫、杉)で応戦する。「杉」は至近弾数発を受けてレーダーなどに被害をうける。「樫」を旗艦としていた第三十一戦隊司令部は、陸上の高雄警備府に将旗を掲げた。損傷艦はただちに基隆への回航が命じられ、1月23日に到着した。応急修理の後2月1日、松型2隻(杉、樫)で出港し、舟山群島で南号作戦のヒ88A船団部隊(「せりあ丸」〈三菱汽船、10,238トン〉、第205号海防艦、第41号海防艦) に合流して門司まで護衛を行った。7日、ヒ88A船団部隊は門司に到着した。護衛終了後の8日に佐世保に帰投し、佐世保海軍工廠で修理が行われた。 航海中の2月5日付で第五艦隊が解隊されて第十方面艦隊が新編された。第三十一戦隊は連合艦隊付属を経て、3月15日付で第二艦隊に編入された。第三十一戦隊司令部は空路で内地に戻り、駆逐艦「竹」や秋月型駆逐艦「花月」に将旗を掲げた。第三十一戦隊の第二艦隊編入3日前に「杉」は第52駆逐隊の司令駆逐艦となった。杉谷長秀大佐(当時、駆逐艦涼月艦長)が第52駆逐隊司令に補職された。修理後は呉に回航されて戦艦「大和」の護衛にあたるが、間もなく呉海軍工廠で再度の修理が行われた。4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊の解隊により、第三十一戦隊は連合艦隊付属となった。5月20日、第三十一戦隊と軽巡洋艦「北上」(人間魚雷回天母艦)などで海上挺進部隊が編成され、「杉」も同部隊に所属した。その後は瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごし、終戦時は呉に在泊していた。10月5日除籍。 12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。終了後は賠償艦に指定され、1947年(昭和22年)7月31日に中華民国に引渡し、接一〇号と仮命名された後、恵陽(フェイヤン)と正式に命名された。しかし、同型の賠償艦で状態の良かった信陽(旧「初梅」)とは違い、状態の良くなかった華陽(旧「蔦」)や衡陽(旧「楓」)とともに再武装されず任務も与えられなかった。国共内戦中の1949年5月に上海を脱出して台湾に向かった際、淡水で座礁事故を起こし、そのまま修理されないまま1951年に除籍され解体された。
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