復員輸送艦
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復員輸送艦(ふくいんゆそうかん)は、太平洋戦争終結後、海外に残された日本人を本土に帰還させるために使用された艦船のこと。復員輸送船とも言われる。正確には第二復員省の特別輸送艦/特別輸送船に指定された艦船を指すが、一般には復員輸送艦(船)または単に復員船と言われている。
- ^ 厚生省『引揚と援護30年の歩み』によると1976年末までの引き揚げ者総数は6,290,702人(『あゝ復員船』の表紙裏に記載あり)。
- ^ 1回に約5,000人収容は、『あゝ復員船』p174による。『昭和軍艦概史 III 終戦と帝国艦艇』によると、約3,000人が収容可能。
- ^ a b c d e f 雑誌「丸」編集部 『写真 太平洋戦争 第10巻』 光人社、1995年、ISBN 4-7698-2092-5、pp.206-209
- ^ 『昭和軍艦概史 III』p87に記載されている特別輸送艦船(昭和21年4月15日現在)の表を元に『あゝ復員船』等で艦を追加し作成する。
- ^ 「酒匂」は1945年12月1日特別輸送艦指定、復員輸送に従事。1946年2月25日特別輸送艦の指定解除、横須賀でアメリカ海軍に引き渡し。『日本海軍史第7巻』p280による。
- ^ a b c d e f g h i j k 昭和20年12月1日付 第二復員省内令第6号。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 昭和21年9月1日付 復員庁第二復員局 復二第210号。いずれも「掃海艦」からの転籍。
- ^ a b c d 昭和22年6月26日付 復員庁第二復員局 復二第462号。いずれも「掃海艦」からの転籍。
- ^ a b c d e f g h 昭和21年8月1日付 復員庁第二復員局 復二第139号。いずれも「掃海艦」からの転籍。
- ^ a b c d 昭和21年9月5日付 復員庁第二復員局 復二第229号。いずれも「掃海艦」からの転籍。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al 昭和22年8月1日付 復員庁第二復員局 復二第544号。いずれも「掃海艦」からの転籍。
- ^ a b c d e 昭和22年7月11日付 復員庁第二復員局 復二第522号。いずれも「掃海艦」からの転籍。
- ^ 昭和21年12月15日付 復員庁第二復員局 復二第496号。「掃海艦」からの転籍。
- ^ 昭和22年9月15日付 復員庁第二復員局 復二第652号。「掃海艦」からの転籍。
- ^ 昭和21年9月15日付 復員庁第二復員局 復二第251号。「掃海艦」からの転籍。
- ^ 『昭和軍艦概史 III』には25号とあるが、掃海特務艇25号は存在せず、おそらく20号の間違い。『あゝ復員船』では20号となっている。
- ^ a b c d 昭和22年1月12日付 復員庁第二復員局 復二第22号。いずれも「掃海艦」もしくは「掃海船」からの転籍。
- ^ 昭和22年2月8日付 復員庁第二復員局 復二第108号。「掃海艦」からの転籍。
- ^ 昭和22年1月27日付 復員庁第二復員局 復二第75号。「掃海艦」からの転籍。
- ^ 昭和22年1月11日付 復員庁第二復員局 復二第21号。「掃海艦」からの転籍。
- ^ a b 昭和21年12月16日付 復員庁第二復員局 復二第466号。
- ^ a b c 昭和22年1月10日付 復員庁第二復員局 復二第18号。
- ^ 昭和22年1月6日付 復員庁第二復員局 復二第2号。
- ^ a b 『昭和軍艦概史 III』による。
- ^ 昭和21年2月10日付 第二復員省 内令第25号。
- ^ 第174号輸送艦は『昭和軍艦概史 III』には記載があるが、『あゝ復員船』には記載がない。『日本の軍艦第13巻』p261には復員輸送、主機械損傷とある。
- 1 復員輸送艦とは
- 2 復員輸送艦の概要
- 3 関連項目
復員輸送
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1945年(昭和20年)12月1日、酒匂は特別輸送艦に指定された。釜山、南洋諸島、ニューギニア、台湾などを航海し、復員輸送に従事した。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員約900名に対しこの時点の酒匂には約300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し甲板に居住区やトイレが設置された。武装については、主砲は砲塔を残し砲身のみ撤去、その他に高角砲、魚雷発射管、機銃、各射撃指揮装置、探照燈、射出機、13号電探、22号電探なども撤去された。乗員の不足を補うため予科練出身の井出定治など軍艦で勤務したことのない者まで集められたが、秩序は維持されていた。外国海軍の将校が乗り込むこともあったが、大原艦長は敬礼を求めた豪州海軍の少尉に対し「こっちは大佐だ」とやり返したという。 また北海道の函館港から朝鮮半島・釜山港へ、朝鮮半島出身労働者(約1000名)を送り届けたこともあった。当時の乗組員の手記によれば、この時、士官居住区解放を求める朝鮮半島出身労働者と酒匂の乗組員との間に対立が起こった。だが、酒匂が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは船酔いに悩まされ、交渉は取りやめとなった。この時、朝鮮系労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂の乗員は泣かされることになったという。また釜山港の埠頭には多数の民衆が集まって朝鮮人労務者を歓迎し、英雄として迎え入れた。目撃した岩松(酒匂航海士)は繰り返される万歳に複雑な想いを抱き、強い印象を受けたと回想している。
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復員輸送
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1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。 1946年4月1日から12月10日にかけ、グアム、ラボール、サイゴン、バンコク、コロ島、沖縄、宮古島各方面の復員輸送任務に従事。 12月15日、特別保管艦に指定される。 1947年、本艦は戦時賠償艦として連合国へ引き渡されることとなった。米国、英国、ソ連、中国の四か国による賠償艦艇配分の会議に先立ち、残存する特別保管艦の視察点検が行わることとなったが、本艦は艦の状態が非常に良かった事から、駆逐艦雪風(陽炎型駆逐艦)と共に視察を受けるモデルシップ(最優秀艦)に指定された。 同年7月6日、特別輸送艦の定めを解かれ、上海にて雪風など旧日本海軍艦艇8隻とともに中華民国海軍に引き渡された。 このとき引き渡された旧日本艦艇には「接一号」から「接八号」という仮の艦名が与えられ、四阪は「接四号」と名付けられた。
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