復官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 21:30 UTC 版)
1881年(明治14年)初上京し、父桑宅と同門の大審院長玉乃世履により検事に推薦、当初俸給の面で揉めたものの、同郷の検事藤井高之の取り成し等により、1月24日検事となり兵庫裁判所に勤務、10月24日東京控訴裁判所を経て、1883年(明治16年)11月15日宮城控訴裁判所検事長。1884年(明治17年)3月21日大阪控訴裁判所を経て、12月19日函館控訴裁判所判事に転じ、1885年(明治18年)4月9日第二期函館重罪裁判陪席、11月27日第四期同職。 1886年(明治19年)5月4日裁判所官制が定められると、5月10日控訴院評定官となり、7月13日東京控訴院に勤務、1887年(明治20年)4月1日第二期東京重罪裁判長を務めた。 1888年(明治21年)12月16日、決議の状況を訴訟関係者に漏洩したとして3ヶ月の罰俸を受けた。12月25日検事。 1889年(明治22年)8月長崎控訴院勤務中、胸水腫のため広島に帰郷、9月30日死去したが、叙位叙勲の都合で10月5日没と公称された。10月16日比治山町広寂寺で葬儀が行われた。
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