南西方面作戦とは? わかりやすく解説

南西方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:41 UTC 版)

杉 (松型駆逐艦)」の記事における「南西方面作戦」の解説

11月2日付で、十一水戦型2隻()は第三十一戦隊司令官江戸太郎少将海兵40期)の指揮下に入った第三十一戦隊旗艦軽巡洋艦五十鈴」と、護衛部隊(秋月型駆逐艦霜月〉、松型駆逐艦〉)という編成で、南方進出する第四航空戦隊航空戦艦2隻(日向伊勢)を護衛する南方輸送部隊H部隊」は11月9日五島列島有川湾を出撃し、馬公経由14日南沙諸島新南群島)に到着した11月15日日本海軍型5隻()で第52駆逐隊新編した。駆逐隊司令には岩上一大佐が任命された。引き続き第十一水戦隊編入された。17日新南群島で四航戦と護衛艦艇(霜月)と別れ第三十一戦隊マニラ進出した11月25日第52駆逐隊第三十一戦隊編入された。 この頃第三十一戦隊第五艦隊編入されていた。さらに北東方面艦隊解隊にともない第五艦隊12月5日付で南西方面艦隊編入され第五艦隊隷下第三十一戦隊自動的に南西方面艦隊所属となった軍隊区分においては南西方面部隊警戒部隊であった南西方面艦隊レイテ島西岸オルモック湾への輸送作戦である多号作戦依然として続行しており、「」も第八多号作戦参加することになったマニラ出撃前、第七多号作戦から帰投した姉妹艦「竹」の損傷状況目撃して乗組員厳し作戦覚悟したという。12月5日駆逐艦3隻()、第18号駆潜艇、第38号駆潜艇第11号輸送艦輸送船3隻、SS艇3隻から成る第八多号作戦部隊マニラ出撃した。指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐で、「梅」座乗していた。 上陸予定日12月7日早朝日本陸軍航空部隊オルモック南方大規模船団発見上級司令部判別迷ったが、やがて敵輸送船団判明した日本陸海軍航空部隊は、多号作戦部隊護衛と、敵上陸船団攻撃の、二つ任務実施するアメリカ軍77師団オルモック南方上陸レイテ島地上戦状況一変し、第43駆逐隊司令オルモック湾への接近断念揚陸地をレイテ島西岸北方サン・イシドロ英語版)に変更した。同7日午前9時、第八輸送部隊サン・イシドロ到着して揚陸開始した。のべ25機の日本海軍戦闘機船団の上直掩実施した同地には接岸施設がなく、兵員揚陸成功した重火器揚陸出来なかった。また揚陸中にタクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、多数死傷者出した輸送船撃沈されたり海岸擱座して壊滅した重装備失ってレイテ島上陸した第六十八旅団は、その後地上戦で「消滅」した。マニラへの帰投中、空襲を受け「」は損傷したF4U コルセア復数機から機銃掃射を受け、軍医長含め多数乗組員倒れた戦死35名、負傷43名)。誘爆を防ぐため魚雷投棄した12月9日昼頃、「」はマニラにたどり着いた同地では駆逐艦3隻(夕月卯月)が第九多号作戦のため出撃準備整えており、「桐」乗組員は「」の損傷状態を目の当たりにした。 12月13日陸軍偵察機ミンドロ島目指す連合軍大部隊を発見した12月14日をもって第十多号作戦駆逐艦清霜」、松型駆逐艦複数参加予定)は中止された。同14日第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機マニラ含めルソン島各地襲撃した型3隻()はマニラ脱出する姉妹艦「梅」海南島経由香港脱出したマニラ空襲損傷していた「」は、高雄にむけ避退中の15日夜にアメリカ潜水艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) の雷撃沈没した14日20時、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合第二遊撃部隊第五艦隊)と第三十一戦隊駆逐艦4隻()で突入作戦実施させるため、両部隊の南沙諸島進出命じた第二遊撃部隊は既にカムラン湾進出していた。マニラ脱出後の型3隻()は、ひとまず南沙諸島様子うかがっていた。 12月15日アメリカ軍ミンドロ島上陸開始してミンドロ島の戦いが始まる。12月16日午前8時35分、大川内長官中将海兵37期)は、南沙諸島待機中の駆逐艦3隻()によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦発令突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐海兵50期)であっ。計画では「マニラへ向かう航路取りつつカラミアン諸島背景サンホセ突入し突入後はマニラ帰投する」という作戦だった。この時、型3隻()はカムラン湾入港直前だったという。「」は給水ポンプ復旧見込み立たず速力21ノットを出すのがやっと、「」は多号作戦での損傷癒えておらず、「」も不具合抱えていた。同16日夕刻43司令指揮下の3隻()はカムラン湾入港しタンカー日栄丸」(日東汽船10,020トン)から燃料補給した。同16日夜、連合艦隊司令部参謀長草鹿龍之介中将先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊対し第二遊撃部隊ミンドロ島突入迫った12月17日型3隻はカムラン出撃したが海上台風大荒れだった。同17日午後菅間司令型3隻の状態から突入作戦成功見込みなしと判断しサンジャック移動して修理する報告した18日夜、第二遊撃部隊サンジャック到着する菅間司令型3隻の20日突入と「但シ 司令肺浸潤カニ重リシトシテ「サイゴン病院入院」を打電した駆逐艦長指揮下で再出撃したが、12月19日午前5時46分になり大川内長官型3隻の突入中止と、第二遊撃部隊との合同命じた詳細は「礼号作戦」を参照 12月20日連合艦隊司令部草鹿参謀長神重徳参謀)は南西方面艦隊ミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込み督促した大川内中将第二水雷戦隊司令官木村昌福少将海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将命令した第二遊撃部隊指揮官第五艦隊司令長官)は旗艦重巡足柄」から航空戦艦日向」に変更した12月21日2130分、3隻(日栄丸)はサンジャック出発22日夕刻カムラン湾進出した挺身部隊指揮官木村昌福少将第二水雷戦隊司令官)の集結待ち12月24日カムラン湾出撃して殴りこみ作戦礼号作戦」が開始された。挺身部隊は、第一挺身隊旗艦一番隊清霜朝霜 〉、二番隊 〉)、第二挺身隊足柄大淀)という編成であった作戦通じ、「」は空襲による至近弾でレーダー使用不能となったほか、砲戦および魚雷戦に必要な装置破損したが、人的の面では戦死した乗員はおらず軽傷者1名を出したけだったカムラン湾への帰路についていた12月28日午後南西方面艦隊型3隻()を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊編入した。二番隊二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により仏印沖で沈没した給糧艦野埼」の乗員発見救助実施した12月29日1135分、カムラン湾帰投して大型艦から燃料補給した。同29日1400、「」や大淀等はカムラン湾出発12月30日13サンジャック到着した。なおマニラから姉妹艦2隻()がカムラン湾到着しこのうち」には第三十一戦隊司令部鶴岡少将)が乗艦していた。30日午後サンジャックにて鶴岡少将第三十一戦隊旗艦を「」から「」に変更した

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南西方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 17:39 UTC 版)

桐 (松型駆逐艦)」の記事における「南西方面作戦」の解説

11月9日南方輸送部隊H部隊」は日本本土出発する。すなわち第四航空戦隊司令官松田千秋少将航空戦艦日向伊勢)、第三十一戦隊旗艦五十鈴秋月型駆逐艦霜月松型駆逐艦 )として北九州出撃した。マニラ到着後、南西方面部隊編入されることが発令されていた。航海途上11月11日15時H部隊澎湖諸島馬公入港して補給開始した「桐」強風により港内座礁する12日夕刻H部隊馬公出発した。翌13日米軍機部隊艦上機襲撃により、マニラ在泊の日本海軍艦船大損害を受けたマニラ大空襲情報により、H部隊新南群島退避命じられる14日14時H部隊新南群島北険錨地に入泊した。翌15日第一号型輸送艦3隻(6号9号10号)が到着しマニラ行の積荷便乗者を託した11月17日、ここでH部隊分割された。「五十鈴」等はマニラ向かい、5隻(日向伊勢霜月)は、いったん南沙諸島長島移動した長島泊地では、マニラから脱出してきた第一水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下の駆逐艦3隻(、潮、竹)が停泊していたので、燃料補給したこの頃11月16日夕刻ボルネオ島ブルネイ湾出港して日本本土にむけ航行中だった第一遊撃部隊戦艦大和長門金剛軽巡矢矧、第17駆逐隊浦風雪風浜風磯風〉)が南シナ海北上していた。「桐」「梅」連合艦隊から第一遊撃部隊護衛命じられていたので出動した17日18時30分第一遊撃部隊合流護衛開始する。また悪天候翻弄される駆逐艦対し旗艦の「大和」から「大丈夫か」という信号何度もあったという。「直衛任務解き原隊復帰せよ」との命令があり、20日午前11時すぎまで護衛協力した後、「桐」「梅」馬公帰投した。型2隻分離後21日未明アメリカ軍潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) が第一遊撃部隊襲撃するシーライオンII)の雷撃により「金剛」と「浦風」が沈没した。「金剛」では第三戦隊司令官鈴木義尾中将島崎利雄艦長など、約1,300名が戦死した。「浦風」では第17駆逐隊司令井保大佐以下全乗組員戦死した川畑当時駆逐艦長)は「もうちょっと護衛していたら、「金剛」もぶじだったのではないかと、残念でしたねえ。」と回想している。 この間11月20日付で第一水雷戦隊解隊された。一水司令官木村昌福少将が、第二水雷戦隊司令官任命された。同20日付で、第三十一戦隊第五艦隊編入された。第一遊撃部隊見送った「桐」馬公に戻る。12月3日マニラ輸送作戦終えた空母隼鷹」と駆逐艦3隻(冬月涼月)が馬公到着した12月5日朝、内地へ戻る戦艦榛名」と護衛駆逐艦2隻(初霜)が馬公到着した。「」と「初霜」の榛名護衛任務馬公までと定められていた。翌6日未明、「榛名」と隼鷹隊は馬公出発し内地むかった。同6日朝、駆逐艦3隻(初霜)は馬公出発「桐」途中で分離してマニラむかった詳細は「多号作戦」を参照 12月中旬第九多号作戦実施されることになったアメリカ軍はすでにレイテ島西岸オルモック上陸しレイテ島地上戦戦局一変していた。第30駆逐隊司令澤村成二大佐指揮する駆逐艦3隻(夕月卯月 )、第21駆潜艇隊(第17号駆潜艇、第37駆潜艇)、輸送船3隻(空知丸美濃丸、たすまにあ丸)、第140号輸送艦と第159輸送艦海軍陸戦隊特二式内火艇10輌)、セブ島特殊潜航艇基地行き第9号輸送艦特殊潜航艇甲標的 2隻搭載)がレイテ島西岸オルモック湾目指した。米軍機部隊来襲予期し情況によりオルモック北西約25kmのパロンポン(英語版)に揚陸地点変更することになった12月9日14時第九多号作戦部隊マニラ出撃する。翌10日には早くも偵察機発見された。12月11日朝からB-24、P-38F4U波状攻撃を受ける。この作戦時、「桐」25mm機銃増強しており、艦長砲術長は7から10機を撃墜した述べている。12時30分、第9号輸送艦船団から分離してセブ島向かい任務終えてマニラ戻った15時以降空襲で「美濃丸」と「たすまにあ丸」が航行不能となり、「空知丸」はパロンポン揚陸命じられた。「桐」航行不能船から陸兵600名を収容した午後6時以降第九多号作戦部隊二分され、第21駆潜隊司令宮下中佐指揮する駆潜艇2隻と駆逐艦卯月」は溺者救助と「空知丸護衛のためパロンポロンに残った30司令直率2隻(夕月)は第140号輸送艦および第159輸送艦護衛して進撃続行午後10時ころオルモック湾突入したオルモック西方2km地点強行揚陸開始したが、この頃すでにオルモックにはアメリカ軍77師団がいて日本軍の姿はなく、第159輸送艦陸上からの砲撃受けて炎上した。さらに、南方からは第77師団対すアメリカ軍補給部隊駆逐艦5隻に守られオルモック向かいつつあった。 12月12日0時15分発見したアメリカ駆逐艦コグラン (USS Coghlan, DD-606) に対して照射砲撃開始した。さらに肉薄して雷撃行ったものの命中しなかった。コグランは一旦退却して他の駆逐艦連れてオルモック湾引き返してきた。この砲撃戦命中弾はなかったものの、日本側2隻は湾外に脱出した午前3時30分、「桐」30司令下令によりパロンポンへ移動し午前6時45分より陸兵600名を揚陸した。午前7時20分にパロンポンを出発しマニラ帰投中の駆潜艇2隻と「空知丸」においつい合流した午前11時すぎ、「桐」反転して夕月」との合流目指した。12時30分、オルモック湾から脱出してきた2隻(夕月、第140号輸送艦)と合流した。3隻(夕月、140号)はマニラ向けて北上したが、16時22分から再び46機のF4U による空襲を受け、「桐」至近弾で右舷機械損傷して一軸航行となり、戦死者12名を出した。「夕月」も缶室に爆弾2発が命中して航行不能となる。このため、第140号輸送艦とともに夕月」の乗員および第30駆逐隊司令などを収容の後、2027分に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯11度38東経12329分 / 北緯11.633度 東経123.483度 / 11.633; 123.483の地点で「夕月」を砲撃処分した12月13日19時、夕月生存者乗せた2隻(、第140号)は、マニラ帰投した。同時期、アメリカ軍ミンドロ島攻勢開始したレイテ戦局の転換にともない、この第九次作をもって多号作戦中止され第十多号作戦実施されなかった。12月15日南西方面艦隊「桐」の呉帰投修理命じた

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南西方面作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:12 UTC 版)

榧 (松型駆逐艦)」の記事における「南西方面作戦」の解説

就役後訓練部隊第二遊撃部隊指揮官志摩清英第五艦隊司令長官麾下第十一水戦隊司令官高間少将海軍兵学校41期、旗艦多摩」)に編入される10月5日舞鶴出発して瀬戸内海回航され、訓練従事した10月中旬第六三四海軍航空隊九州鹿航空基地転進協力した台湾沖航空戦台湾第二航空艦隊消耗したので、大本営海軍部は海上護衛総司令部大鷹型航空母艦海鷹」を航空機輸送任務投入した10月25日型4隻()は、空母2隻(龍鳳海鷹)を護衛して佐世保出撃する10月27日基隆到着した輸送任務終えた後は10月30日基隆出港して佐世保経由し11月2日呉に帰投した。その後訓練をおこなう。 11月25日付で、第三十一戦隊司令官江戸太郎少将海兵40期)麾下の第43駆逐隊編入される11月25日昭南に向かうヒ83船団を、空母海鷹」と駆逐艦5隻(卯月型〈夕月卯月〉、型〈〉)および海防艦複数隻などで護衛して門司出撃する高雄到着後、駆逐艦はヒ83船団別れる。「」はマニラ方面進出した12月13日陸軍偵察機ミンドロ島目指す連合軍大部隊を発見し12月14日をもって第十多号作戦駆逐艦清霜」、複数隻等参加予定)は中止された。同14日第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機マニラ含めルソン島各地襲撃したマニラには、第八多号作戦参加して損傷した43駆逐隊停泊していた。第43駆逐隊司令菅間良吉大佐海兵50期)は司令駆逐艦「梅」から「」に変更した空襲を受け、型3隻()は共にマニラ脱出することとなる。 14日20時、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合第二遊撃部隊第五艦隊)と第三十一戦隊駆逐艦4隻()で突入作戦実施させるため、両部隊の南沙諸島進出命じた第二遊撃部隊は既にカムラン湾進出していた。マニラ脱出後の型3隻()は、ひとまず南沙諸島様子を伺う事となった。なお北東方面艦隊解隊にともない第五艦隊12月5日付で南西方面艦隊編入され第五艦隊隷下第三十一戦隊自動的に南西方面艦隊所属となった軍隊区分においては南西方面部隊警戒部隊であった12月15日アメリカ軍ミンドロ島上陸開始してミンドロ島の戦いが始まる。12月16日午前8時35分、大川内長官中将海兵37期)は、南沙諸島待機中の駆逐艦3隻()によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦発令突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐海兵50期)であっ。計画では「マニラへ向かう航路取りつつカラミアン諸島背景サンホセ突入し突入後はマニラ帰投する」という作戦だった。この時、型3隻()はカムラン湾入港直前だったという。「」は給水ポンプ復旧見込み立たず速力21ノットを出すのがやっと、「」は多号作戦での損傷癒えておらず、「」も不具合抱えていた。同16日夕刻43司令指揮下の3隻()はカムラン湾入港しタンカー日栄丸」(日東汽船10,020トン)から燃料補給した。同16日夜、連合艦隊司令部参謀長草鹿龍之介中将先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊対し第二遊撃部隊ミンドロ島突入迫った12月17日型3隻はカムラン出撃したが海上台風大荒れだった。同17日午後菅間司令突入作戦成功見込みなしと判断しサンジャック移動して修理する報告した18日夜、第二遊撃部隊サンジャック到着する菅間司令指揮駆逐艦3隻の20日突入と「但シ 司令肺浸潤カニ重リシトシテ「サイゴン病院入院」を打電した駆逐艦長指揮下で再出撃したが、12月19日午前5時46分になり大川内長官型3隻の突入中止と、第二遊撃部隊との合同命じた詳細は「礼号作戦」を参照 12月20日連合艦隊司令部草鹿参謀長神重徳参謀)は南西方面艦隊ミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込み督促した大川内中将第二水雷戦隊司令官木村昌福少将海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将命令した第二遊撃部隊指揮官第五艦隊司令長官)は旗艦重巡足柄」から航空戦艦日向」に変更した12月21日2130分、3隻(日栄丸)はサンジャック出発22日夕刻カムラン湾進出した挺身部隊指揮官木村昌福少将第二水雷戦隊司令官)の集結待ち12月24日カムラン湾出撃して殴りこみ作戦礼号作戦」が開始された。 ミンドロ島目前迫った12月26日夕刻挺身部隊ミンドロ島進出したばかりの第5空軍機の空襲を受ける。2130分には、機銃掃射後の機体引き起こしタイミング誤ったP-38が後マストに当たり、根本から折れ被害出た。また僚艦清霜」の被弾(のち沈没)も目撃した空襲魚雷艇襲撃を受けつつもサンホセ接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「」「とともに魚雷発射したいずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (SS James H. Breasted) に命中して着底させた。作戦通じ、後マスト折損の他に機銃掃射による燃料タンク損傷から罐の一つ使用不能となり、火災発生する最大速力20ノットに下がる損傷を受け、戦死者4名、負傷者17名を出した岩淵艦長回想では、戦死者30名以上)。 作戦からの帰途12月28日午後南西方面艦隊型3隻()を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊編入した。型3隻は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により沈没した給糧艦野埼」の乗員発見救助実施した12月29日1135分、カムラン湾帰投した。型3隻は大型艦足柄大淀)から燃料補給した。同29日1400、「」や大淀等はカムラン湾出発12月30日13サンジャック到着した

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南西方面作戦

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樫 (松型駆逐艦)」の記事における「南西方面作戦」の解説

1944年昭和19年12月5日付で北東方面艦隊解隊され、第五艦隊南西方面艦隊編入第五艦隊隷下第三十一戦隊自動的に南西方面艦隊所属となった軍隊区分においては南西方面部隊警戒部隊であった昭南到着後の「」は、すぐさまマニラへの緊急輸送任務に就く。 12月13日陸軍偵察機ミンドロ島目指す連合軍大部隊を発見した12月14日をもって第十多号作戦駆逐艦清霜」、複数参加予定)は中止された。同14日第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機マニラ含めルソン島各地襲撃した。「」はマニラ到着したばかりで、また同地には第八多号作戦参加して損傷した43駆逐隊がいた。第43駆逐隊司令菅間良吉大佐海兵50期)は司令駆逐艦「梅」から「」に変更した空襲を受け、型3隻()は共にマニラ脱出することとなる。 14日20時、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合第二遊撃部隊第五艦隊)と第三十一戦隊駆逐艦4隻()で突入作戦実施させるため、両部隊の南沙諸島進出命じた第二遊撃部隊は既にカムラン湾進出していた。マニラ脱出後の型3隻()は、ひとまず南沙諸島様子を伺う事となった。 12月15日アメリカ軍ミンドロ島上陸開始してミンドロ島の戦いが始まる。12月16日午前8時35分、大川内長官中将海兵37期)は、南沙諸島待機中の駆逐艦3隻()によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦発令突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐海兵50期であった計画では「マニラへ向かう航路取りつつカラミアン諸島背景サンホセ突入し突入後はマニラ帰投する」という作戦だった。この時、型3隻()はカムラン湾入港直前だったという。「」は給水ポンプ復旧見込み立たず速力21ノットを出すのがやっと、「」は多号作戦での損傷癒えておらず、「」も不具合抱えていた。同16日夕刻43司令指揮下の3隻()はカムラン湾入港しタンカー日栄丸」(日東汽船10,020トン)から燃料補給した。同16日夜、連合艦隊司令部参謀長草鹿龍之介中将先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊対し第二遊撃部隊ミンドロ島突入迫った12月17日型3隻はカムラン出撃したが海上台風大荒れだった。同17日午後菅間司令型3隻の状態から突入作戦成功見込みなしと判断しサンジャック移動して修理する報告した18日夜、第二遊撃部隊サンジャック到着する菅間司令型3隻の20日突入と「但シ 司令肺浸潤カニ重リシトシテ「サイゴン病院入院」を打電した駆逐艦長指揮下で再出撃したが、12月19日午前5時46分になり大川内長官型3隻の突入中止と、第二遊撃部隊との合同命じた詳細は「礼号作戦」を参照 12月20日連合艦隊司令部草鹿参謀長神重徳参謀)は南西方面艦隊ミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込み督促した大川内中将第二水雷戦隊司令官木村昌福少将海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将命令した12月21日2130分、3隻(日栄丸)はサンジャック出発22日夕刻カムラン湾進出した挺身部隊指揮官木村昌福少将第二水雷戦隊司令官)の集結待ち12月24日カムラン湾出撃して殴りこみ作戦礼号作戦」が開始された。空襲を受けつつもサンホセ接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「」「とともに魚雷発射したいずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (SS James H. Breasted) に命中して着底させた。帰路、「」は爆撃受けた被害はなかった。作戦通じ戦死者3名、負傷者6名を出したものの、大きな被害は受けなかった。 カムラン湾への帰路についていた12月28日午後南西方面艦隊型3隻()を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊編入した。型3隻は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により沈没した給糧艦野埼」の乗員発見救助実施した12月29日1135分、カムラン湾帰投した。型3隻は大型艦足柄大淀)から燃料補給した。同29日1400、「」や大淀等はカムラン湾出発12月30日13サンジャック到着した同月29日マニラから来た姉妹艦2隻()がカムラン湾到着した。「」には第三十一戦隊司令部司令官鶴岡信道少将海兵43期)が乗艦しており、12月30日午後サンジャックにて鶴岡少将第三十一戦隊旗艦を「」から「」に変更した1945年昭和20年1月1日型3隻()はサンジャック出港し香港経由1月7日台湾高雄到着した8日朝、南西方面艦隊第三十一戦隊麾下3隻()のルソン島リンガエン湾突入促した9日朝、南西方面艦隊水上部隊リンガエン湾突入あきらめたので、高雄修理中の「」は舞鶴帰投し、香港修理中の「梅」高雄移動した1月10日南西方面部隊指揮官南西方面艦隊長官)は各部隊任務変更した第三十一戦隊対し「(南西方面部隊警戒部隊指揮官所定ニ依リ台湾海峡呂栄海峡方面ニ於ケル潜水艦掃討ヲ行フト共ニ 台湾呂栄間ノ作戦輸送ニ任ズベシ」と命じたのである1月21日高雄第38任務部隊艦上機空襲を受け、型3隻()も応戦する。「」は3発の直撃弾により缶室、電信室、射撃装置など損傷して戦死者21名、負傷者20名を出す。第三十一戦隊司令部陸上高雄警備府将旗掲げた。「」はただちに基隆への回航命じられ1月24日同地到着した1月27日には基隆型5隻()が揃ったが、「梅」と「」は駆逐艦「汐風」と共にルソン島からの航空隊関係者脱出作戦投入され1月31日バシー海峡空襲により「梅」沈没、「」も損傷した応急修理続けていた「」は、2月1日に「とともに出港し舟山群島南号作戦のヒ88A船団(「せりあ丸」〈三菱汽船10,238トン〉、第205海防艦、第41海防艦)に合流して門司まで護衛行った。ヒ88A船団部隊2月7日門司到着した護衛終了後の翌8日佐世保帰投し、佐世保海軍工廠修理が行われた。

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