南西方面作戦
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11月2日付で、十一水戦の松型2隻(杉、桑)は第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)の指揮下に入った。第三十一戦隊は旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」と、護衛部隊(秋月型駆逐艦〈霜月〉、松型駆逐艦〈 桑、桐、杉、桃、梅〉)という編成で、南方に進出する第四航空戦隊の航空戦艦2隻(日向、伊勢)を護衛する。南方輸送部隊「H部隊」は11月9日に五島列島有川湾を出撃し、馬公経由で14日に南沙諸島(新南群島)に到着した。 11月15日、日本海軍は松型5隻(桑、檜、樅、杉、樫)で第52駆逐隊を新編した。駆逐隊司令には岩上次一大佐が任命された。引き続き第十一水雷戦隊に編入された。17日、新南群島で四航戦と護衛艦艇(霜月、梅、桐)と別れ、第三十一戦隊はマニラに進出した。 11月25日、第52駆逐隊は第三十一戦隊に編入された。 この頃、第三十一戦隊は第五艦隊に編入されていた。さらに北東方面艦隊の解隊にともない第五艦隊は12月5日付で南西方面艦隊に編入され、第五艦隊隷下の第三十一戦隊も自動的に南西方面艦隊所属となった。軍隊区分においては、南西方面部隊の警戒部隊であった。南西方面艦隊はレイテ島西岸オルモック湾への輸送作戦である多号作戦を依然として続行しており、「杉」も第八次多号作戦に参加することになった。マニラ出撃前、第七次多号作戦から帰投した姉妹艦「竹」の損傷状況を目撃して、杉乗組員は厳しい作戦を覚悟したという。12月5日、駆逐艦3隻(梅、桃、杉)、第18号駆潜艇、第38号駆潜艇、第11号輸送艦、輸送船3隻、SS艇3隻から成る第八次多号作戦部隊はマニラを出撃した。指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐で、「梅」に座乗していた。 上陸予定日の12月7日早朝、日本陸軍航空部隊がオルモック南方に大規模船団を発見、上級司令部は判別に迷ったが、やがて敵輸送船団と判明した。日本陸海軍航空部隊は、多号作戦部隊の護衛と、敵上陸船団攻撃の、二つの任務を実施する。アメリカ軍第77師団のオルモック南方上陸でレイテ島地上戦の状況が一変し、第43駆逐隊司令はオルモック湾への接近を断念、揚陸地をレイテ島西岸北方のサン・イシドロ(英語版)に変更した。同7日午前9時、第八次輸送部隊はサン・イシドロに到着して揚陸を開始した。のべ25機の日本海軍戦闘機が船団の上空直掩を実施した。同地には接岸施設がなく、兵員の揚陸は成功したが重火器の揚陸は出来なかった。また揚陸中にタクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、多数の死傷者を出した。輸送船も撃沈されたり海岸に擱座して壊滅した。重装備を失ってレイテ島に上陸した第六十八旅団は、その後の地上戦で「消滅」した。マニラへの帰投中、空襲を受け「杉」は損傷した。F4U コルセア復数機から機銃掃射を受け、軍医長を含め多数の乗組員が倒れた(戦死35名、負傷43名)。誘爆を防ぐため魚雷も投棄した。12月9日昼頃、「杉」はマニラにたどり着いた。同地では駆逐艦3隻(夕月、卯月、桐)が第九次多号作戦のため出撃準備を整えており、「桐」乗組員は「杉」の損傷状態を目の当たりにした。 12月13日、陸軍偵察機がミンドロ島を目指す連合軍大部隊を発見した。12月14日をもって第十次多号作戦(駆逐艦「清霜」、松型駆逐艦複数参加予定)は中止された。同14日、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機はマニラを含めルソン島各地を襲撃した。松型3隻(杉、樫、榧)はマニラを脱出する。姉妹艦「梅」は海南島経由で香港へ脱出した。マニラ空襲で損傷していた「桃」は、高雄にむけ避退中の15日夜にアメリカ潜水艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) の雷撃で沈没した。 14日20時、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合に第二遊撃部隊(第五艦隊)と第三十一戦隊の駆逐艦4隻(梅、榧、杉、樫)で突入作戦を実施させるため、両部隊の南沙諸島進出を命じた。第二遊撃部隊は既にカムラン湾に進出していた。マニラ脱出後の松型3隻(樫、杉、榧)は、ひとまず南沙諸島で様子をうかがっていた。 12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる。12月16日午前8時35分、大川内長官(中将、海兵37期)は、南沙諸島に待機中の駆逐艦3隻(樫、榧、杉)によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を発令、突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)であっ。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった。この時、松型3隻(榧、杉、樫)はカムラン湾入港直前だったという。「樫」は給水ポンプの復旧の見込みが立たず速力は21ノットを出すのがやっと、「杉」は多号作戦での損傷が癒えておらず、「榧」も不具合を抱えていた。同16日夕刻、43駆司令指揮下の3隻(杉、樫、榧)はカムラン湾に入港し、タンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)から燃料を補給した。同16日夜、連合艦隊司令部(参謀長草鹿龍之介中将、先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊に対し、第二遊撃部隊のミンドロ島突入を迫った。 12月17日、松型3隻はカムランを出撃したが海上は台風で大荒れだった。同17日午後、菅間司令は松型3隻の状態から突入作戦成功の見込みなしと判断し、サンジャックに移動して修理すると報告した。18日夜、第二遊撃部隊がサンジャックに到着する。菅間司令は松型3隻の20日夜突入と「但シ 司令ハ肺浸潤俄カニ重リシトシテ「サイゴン」病院ニ入院」を打電した。榧駆逐艦長の指揮下で再出撃したが、12月19日午前5時46分になり大川内長官は松型3隻の突入中止と、第二遊撃部隊との合同を命じた。 詳細は「礼号作戦」を参照 12月20日、連合艦隊司令部(草鹿参謀長、神重徳参謀)は南西方面艦隊にミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込みを督促した。大川内中将は第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将に命令した。 第二遊撃部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は旗艦を重巡「足柄」から航空戦艦「日向」に変更した。12月21日21時30分、3隻(樫、榧、日栄丸)はサンジャックを出発、22日夕刻にカムラン湾へ進出した。挺身部隊(指揮官木村昌福少将、第二水雷戦隊司令官)の集結を待ち、12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された。挺身部隊は、第一挺身隊(旗艦霞、一番隊〈 清霜、朝霜 〉、二番隊〈 榧、杉、樫 〉)、第二挺身隊(足柄、大淀)という編成であった。作戦を通じ、「杉」は空襲による至近弾でレーダーが使用不能となったほか、砲戦および魚雷戦に必要な装置も破損したが、人的の面では戦死した乗員はおらず軽傷者1名を出しただけだった。カムラン湾への帰路についていた12月28日午後、南西方面艦隊は松型3隻(榧、樫、杉)を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊に編入した。二番隊は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中、アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により仏印沖で沈没した給糧艦「野埼」の乗員を発見、救助を実施した。12月29日11時35分、カムラン湾に帰投して大型艦から燃料を補給した。同29日1400、「杉」や大淀等はカムラン湾を出発、12月30日13時サンジャックに到着した。なおマニラから姉妹艦2隻(樅、檜)がカムラン湾に到着し、このうち「樅」には第三十一戦隊司令部(鶴岡少将)が乗艦していた。30日午後、サンジャックにて鶴岡少将は第三十一戦隊旗艦を「樅」から「樫」に変更した。
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南西方面作戦
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11月9日、南方輸送部隊「H部隊」は日本本土を出発する。すなわち第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)航空戦艦(日向、伊勢)、第三十一戦隊(旗艦五十鈴、秋月型駆逐艦霜月、松型駆逐艦梅、桐、桑、杉、桃 )として北九州を出撃した。マニラ到着後、南西方面部隊に編入されることが発令されていた。航海途上の11月11日15時、H部隊は澎湖諸島の馬公に入港して補給を開始した。「桐」は強風により港内で座礁する。12日夕刻、H部隊は馬公を出発した。翌13日、米軍機動部隊艦上機の襲撃により、マニラ在泊の日本海軍艦船は大損害を受けた。マニラ大空襲の情報により、H部隊は新南群島退避を命じられる。14日14時、H部隊は新南群島北険錨地に入泊した。翌15日、第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)が到着し、マニラ行の積荷や便乗者を託した。11月17日、ここでH部隊は分割された。「五十鈴」等はマニラへ向かい、5隻(日向、伊勢、霜月、梅、桐)は、いったん南沙諸島長島に移動した。長島泊地では、マニラから脱出してきた第一水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下の駆逐艦3隻(霞、潮、竹)が停泊していたので、燃料を補給した。 この頃11月16日夕刻にボルネオ島ブルネイ湾を出港して日本本土にむけ航行中だった第一遊撃部隊(戦艦大和、長門、金剛、軽巡矢矧、第17駆逐隊〈浦風、雪風、浜風、磯風〉)が南シナ海を北上していた。「桐」と「梅」は連合艦隊から第一遊撃部隊の護衛を命じられていたので出動した。17日18時30分、第一遊撃部隊に合流、護衛を開始する。また悪天候に翻弄される駆逐艦に対し、旗艦の「大和」から「桐は大丈夫か」という信号が何度もあったという。「直衛任務を解き原隊に復帰せよ」との命令があり、20日午前11時すぎまで護衛に協力した後、「桐」と「梅」は馬公に帰投した。松型2隻分離後の21日未明、アメリカ軍潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) が第一遊撃部隊を襲撃する。シーライオン(II)の雷撃により「金剛」と「浦風」が沈没した。「金剛」では第三戦隊司令官鈴木義尾中将や島崎利雄艦長など、約1,300名が戦死した。「浦風」では第17駆逐隊司令谷井保大佐以下全乗組員が戦死した。川畑(当時、桐駆逐艦長)は「もうちょっと護衛していたら、「金剛」もぶじだったのではないかと、残念でしたねえ。」と回想している。 この間の11月20日付で第一水雷戦隊が解隊された。一水戦司令官木村昌福少将が、第二水雷戦隊司令官に任命された。同20日付で、第三十一戦隊は第五艦隊に編入された。第一遊撃部隊を見送った「桐」は馬公に戻る。12月3日、マニラ輸送作戦を終えた空母「隼鷹」と駆逐艦3隻(冬月、涼月、槇)が馬公に到着した。12月5日朝、内地へ戻る戦艦「榛名」と護衛の駆逐艦2隻(初霜、霞)が馬公に到着した。「霞」と「初霜」の榛名護衛任務は馬公までと定められていた。翌6日未明、「榛名」と隼鷹隊は馬公を出発し、内地にむかった。同6日朝、駆逐艦3隻(初霜、霞、桐)は馬公を出発、「桐」は途中で分離してマニラにむかった。 詳細は「多号作戦」を参照 12月中旬、第九次多号作戦が実施されることになった。アメリカ軍はすでにレイテ島西岸オルモックに上陸し、レイテ島地上戦の戦局は一変していた。第30駆逐隊司令澤村成二大佐が指揮する駆逐艦3隻(夕月、卯月、桐 )、第21駆潜艇隊(第17号駆潜艇、第37号駆潜艇)、輸送船3隻(空知丸、美濃丸、たすまにあ丸)、第140号輸送艦と第159号輸送艦(海軍陸戦隊と特二式内火艇10輌)、セブ島の特殊潜航艇基地行きの第9号輸送艦(特殊潜航艇甲標的 2隻搭載)がレイテ島西岸のオルモック湾を目指した。米軍機動部隊の来襲を予期し、情況によりオルモック北西約25kmのパロンポン(英語版)に揚陸地点を変更することになった。 12月9日14時、第九次多号作戦部隊はマニラを出撃する。翌10日には早くも偵察機に発見された。12月11日朝からB-24、P-38、F4U の波状攻撃を受ける。この作戦時、「桐」は25mm機銃を増強しており、艦長や砲術長は7から10機を撃墜したと述べている。12時30分、第9号輸送艦は船団から分離してセブ島に向かい、任務を終えてマニラへ戻った。15時以降の空襲で「美濃丸」と「たすまにあ丸」が航行不能となり、「空知丸」はパロンポン揚陸を命じられた。「桐」は航行不能船から陸兵約600名を収容した。午後6時以降、第九次多号作戦部隊は二分され、第21駆潜隊司令宮下亮中佐が指揮する駆潜艇2隻と駆逐艦「卯月」は溺者救助と「空知丸」護衛のためパロンポロンに残った。30駆司令直率2隻(夕月、桐)は第140号輸送艦および第159号輸送艦を護衛して進撃を続行、午後10時ころオルモック湾に突入した。オルモック西方2km地点で強行揚陸を開始したが、この頃すでにオルモックにはアメリカ軍第77師団がいて日本軍の姿はなく、第159号輸送艦は陸上からの砲撃を受けて炎上した。さらに、南方からは第77師団に対するアメリカ軍補給部隊が駆逐艦5隻に守られてオルモックに向かいつつあった。 12月12日0時15分、発見したアメリカ駆逐艦コグラン (USS Coghlan, DD-606) に対して照射砲撃を開始した。さらに肉薄して雷撃を行ったものの命中しなかった。コグランは一旦退却して他の駆逐艦を連れてオルモック湾に引き返してきた。この砲撃戦で命中弾はなかったものの、日本側2隻は湾外に脱出した。午前3時30分、「桐」は30駆司令の下令によりパロンポンへ移動し、午前6時45分より陸兵約600名を揚陸した。午前7時20分にパロンポンを出発し、マニラへ帰投中の駆潜艇2隻と「空知丸」においついて合流した。午前11時すぎ、「桐」は反転して「夕月」との合流を目指した。12時30分、オルモック湾から脱出してきた2隻(夕月、第140号輸送艦)と合流した。3隻(夕月、桐、140号)はマニラへ向けて北上したが、16時22分から再び46機のF4U による空襲を受け、「桐」は至近弾で右舷機械が損傷して一軸航行となり、戦死者12名を出した。「夕月」も缶室に爆弾2発が命中して航行不能となる。このため、第140号輸送艦とともに「夕月」の乗員および第30駆逐隊司令などを収容の後、20時27分に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯11度38分 東経123度29分 / 北緯11.633度 東経123.483度 / 11.633; 123.483の地点で「夕月」を砲撃処分した。12月13日19時、夕月生存者を乗せた2隻(桐、第140号)は、マニラに帰投した。同時期、アメリカ軍がミンドロ島に攻勢を開始した。レイテ戦局の転換にともない、この第九次作戦をもって多号作戦は中止され、第十次多号作戦は実施されなかった。12月15日、南西方面艦隊は「桐」の呉帰投と修理を命じた。
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南西方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:12 UTC 版)
就役後、訓練部隊で第二遊撃部隊(指揮官:志摩清英第五艦隊司令長官)麾下の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期、旗艦「多摩」)に編入される。10月5日に舞鶴を出発して瀬戸内海に回航され、訓練に従事した。10月中旬、第六三四海軍航空隊の九州鹿屋航空基地転進に協力した。 台湾沖航空戦で台湾の第二航空艦隊が消耗したので、大本営海軍部は海上護衛総司令部の大鷹型航空母艦「海鷹」を航空機輸送任務に投入した。10月25日、松型4隻(榧、樅、梅、桃)は、空母2隻(龍鳳、海鷹)を護衛して佐世保を出撃する。10月27日に基隆に到着した。輸送任務を終えた後は10月30日に基隆を出港して佐世保を経由し、11月2日呉に帰投した。その後は訓練をおこなう。 11月25日付で、第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)麾下の第43駆逐隊に編入される。 11月25日、昭南に向かうヒ83船団を、空母「海鷹」と駆逐艦5隻(卯月型〈夕月、卯月〉、松型〈樅、檜、榧〉)および海防艦複数隻などで護衛して門司を出撃する。高雄到着後、駆逐艦はヒ83船団と別れる。「榧」はマニラ方面へ進出した。 12月13日、陸軍偵察機がミンドロ島を目指す連合軍大部隊を発見し、12月14日をもって第十次多号作戦(駆逐艦「清霜」、松型複数隻等参加予定)は中止された。同14日、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機はマニラを含めルソン島各地を襲撃した。マニラには、第八次多号作戦に参加して損傷した第43駆逐隊が停泊していた。第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)は司令駆逐艦を「梅」から「榧」に変更した。空襲を受け、松型3隻(榧、杉、樫)は共にマニラを脱出することとなる。 14日20時、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合に第二遊撃部隊(第五艦隊)と第三十一戦隊の駆逐艦4隻(梅、榧、杉、樫)で突入作戦を実施させるため、両部隊の南沙諸島進出を命じた。第二遊撃部隊は既にカムラン湾に進出していた。マニラ脱出後の松型3隻(樫、杉、榧)は、ひとまず南沙諸島で様子を伺う事となった。なお北東方面艦隊の解隊にともない第五艦隊は12月5日付で南西方面艦隊に編入され、第五艦隊隷下の第三十一戦隊も自動的に南西方面艦隊所属となった。軍隊区分においては、南西方面部隊の警戒部隊であった。 12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる。12月16日午前8時35分、大川内長官(中将、海兵37期)は、南沙諸島に待機中の駆逐艦3隻(樫、榧、杉)によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を発令、突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)であっ。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった。この時、松型3隻(榧、杉、樫)はカムラン湾入港直前だったという。「樫」は給水ポンプの復旧の見込みが立たず速力は21ノットを出すのがやっと、「杉」は多号作戦での損傷が癒えておらず、「榧」も不具合を抱えていた。同16日夕刻、43駆司令指揮下の3隻(杉、樫、榧)はカムラン湾に入港し、タンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)から燃料を補給した。同16日夜、連合艦隊司令部(参謀長草鹿龍之介中将、先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊に対し、第二遊撃部隊のミンドロ島突入を迫った。 12月17日、松型3隻はカムランを出撃したが海上は台風で大荒れだった。同17日午後、菅間司令は突入作戦成功の見込みなしと判断し、サンジャックに移動して修理すると報告した。18日夜、第二遊撃部隊がサンジャックに到着する。菅間司令は指揮下駆逐艦3隻の20日夜突入と「但シ 司令ハ肺浸潤俄カニ重リシトシテ「サイゴン」病院ニ入院」を打電した。榧駆逐艦長の指揮下で再出撃したが、12月19日午前5時46分になり大川内長官は松型3隻の突入中止と、第二遊撃部隊との合同を命じた。 詳細は「礼号作戦」を参照 12月20日、連合艦隊司令部(草鹿参謀長、神重徳参謀)は南西方面艦隊にミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込みを督促した。大川内中将は第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将に命令した。 第二遊撃部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は旗艦を重巡「足柄」から航空戦艦「日向」に変更した。12月21日21時30分、3隻(樫、榧、日栄丸)はサンジャックを出発、22日夕刻にカムラン湾へ進出した。挺身部隊(指揮官木村昌福少将、第二水雷戦隊司令官)の集結を待ち、12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された。 ミンドロ島が目前に迫った12月26日夕刻、挺身部隊はミンドロ島に進出したばかりの第5空軍機の空襲を受ける。21時30分には、機銃掃射後の機体の引き起こしのタイミングを誤ったP-38が後マストに当たり、根本から折れる被害が出た。また僚艦「清霜」の被弾(のち沈没)も目撃した。空襲と魚雷艇の襲撃を受けつつもサンホセに接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「霞」「樫」とともに魚雷を発射した。いずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷は貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (SS James H. Breasted) に命中して着底させた。作戦を通じ、後マスト折損の他に機銃掃射による燃料タンク損傷から罐の一つが使用不能となり、火災が発生する。最大速力が20ノットに下がる損傷を受け、戦死者4名、負傷者17名を出した(岩淵艦長の回想では、戦死者30名以上)。 作戦からの帰途、12月28日午後、南西方面艦隊は松型3隻(榧、樫、杉)を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊に編入した。松型3隻は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中、アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により沈没した給糧艦「野埼」の乗員を発見、救助を実施した。12月29日11時35分、カムラン湾に帰投した。松型3隻は大型艦(足柄、大淀)から燃料を補給した。同29日1400、「樫」や大淀等はカムラン湾を出発、12月30日13時サンジャックに到着した。
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南西方面作戦
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1944年(昭和19年)12月5日付で北東方面艦隊が解隊され、第五艦隊は南西方面艦隊に編入、第五艦隊隷下の第三十一戦隊も自動的に南西方面艦隊所属となった。軍隊区分においては、南西方面部隊の警戒部隊であった。昭南到着後の「樫」は、すぐさまマニラへの緊急輸送任務に就く。 12月13日、陸軍偵察機がミンドロ島を目指す連合軍大部隊を発見した。12月14日をもって第十次多号作戦(駆逐艦「清霜」、松型複数隻参加予定)は中止された。同14日、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機はマニラを含めルソン島各地を襲撃した。「樫」はマニラに到着したばかりで、また同地には第八次多号作戦に参加して損傷した第43駆逐隊がいた。第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)は司令駆逐艦を「梅」から「榧」に変更した。空襲を受け、松型3隻(榧、杉、樫)は共にマニラを脱出することとなる。 14日20時、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合に第二遊撃部隊(第五艦隊)と第三十一戦隊の駆逐艦4隻(梅、榧、杉、樫)で突入作戦を実施させるため、両部隊の南沙諸島進出を命じた。第二遊撃部隊は既にカムラン湾に進出していた。マニラ脱出後の松型3隻(樫、杉、榧)は、ひとまず南沙諸島で様子を伺う事となった。 12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる。12月16日午前8時35分、大川内長官(中将、海兵37期)は、南沙諸島に待機中の駆逐艦3隻(樫、榧、杉)によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を発令、突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)であった。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった。この時、松型3隻(榧、杉、樫)はカムラン湾入港直前だったという。「樫」は給水ポンプの復旧の見込みが立たず速力は21ノットを出すのがやっと、「杉」は多号作戦での損傷が癒えておらず、「榧」も不具合を抱えていた。同16日夕刻、43駆司令指揮下の3隻(杉、樫、榧)はカムラン湾に入港し、タンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)から燃料を補給した。同16日夜、連合艦隊司令部(参謀長草鹿龍之介中将、先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊に対し、第二遊撃部隊のミンドロ島突入を迫った。 12月17日、松型3隻はカムランを出撃したが海上は台風で大荒れだった。同17日午後、菅間司令は松型3隻の状態から突入作戦成功の見込みなしと判断し、サンジャックに移動して修理すると報告した。18日夜、第二遊撃部隊がサンジャックに到着する。菅間司令は松型3隻の20日夜突入と「但シ 司令ハ肺浸潤俄カニ重リシトシテ「サイゴン」病院ニ入院」を打電した。榧駆逐艦長の指揮下で再出撃したが、12月19日午前5時46分になり大川内長官は松型3隻の突入中止と、第二遊撃部隊との合同を命じた。 詳細は「礼号作戦」を参照 12月20日、連合艦隊司令部(草鹿参謀長、神重徳参謀)は南西方面艦隊にミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込みを督促した。大川内中将は第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将に命令した。 12月21日21時30分、3隻(樫、榧、日栄丸)はサンジャックを出発、22日夕刻にカムラン湾へ進出した。挺身部隊(指揮官木村昌福少将、第二水雷戦隊司令官)の集結を待ち、12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された。空襲を受けつつもサンホセに接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「霞」「榧」とともに魚雷を発射した。いずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷は貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (SS James H. Breasted) に命中して着底させた。帰路、「樫」は爆撃を受けたが被害はなかった。作戦を通じ戦死者3名、負傷者6名を出したものの、大きな被害は受けなかった。 カムラン湾への帰路についていた12月28日午後、南西方面艦隊は松型3隻(榧、樫、杉)を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊に編入した。松型3隻は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中、アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により沈没した給糧艦「野埼」の乗員を発見、救助を実施した。12月29日11時35分、カムラン湾に帰投した。松型3隻は大型艦(足柄、大淀)から燃料を補給した。同29日1400、「樫」や大淀等はカムラン湾を出発、12月30日13時サンジャックに到着した。 同月29日、マニラから来た姉妹艦2隻(樅、檜)がカムラン湾に到着した。「樅」には第三十一戦隊司令部(司令官鶴岡信道少将、海兵43期)が乗艦しており、12月30日午後サンジャックにて鶴岡少将は第三十一戦隊旗艦を「樅」から「樫」に変更した。 1945年(昭和20年)1月1日、松型3隻(樫、榧、杉)はサンジャックを出港し、香港経由で1月7日台湾高雄に到着した。8日朝、南西方面艦隊は第三十一戦隊に麾下3隻(梅、樫、杉)のルソン島リンガエン湾突入を促した。9日朝、南西方面艦隊は水上部隊のリンガエン湾突入をあきらめたので、高雄で修理中の「榧」は舞鶴へ帰投し、香港で修理中の「梅」も高雄へ移動した。1月10日、南西方面部隊指揮官(南西方面艦隊長官)は各部隊の任務を変更した。第三十一戦隊に対し「(南西方面部隊)警戒部隊ハ指揮官所定ニ依リ台湾海峡及呂栄海峡方面ニ於ケル敵潜水艦掃討ヲ行フト共ニ 台湾、呂栄間ノ作戦輸送ニ任ズベシ」と命じたのである。 1月21日、高雄で第38任務部隊艦上機の空襲を受け、松型3隻(杉、樫、梅)も応戦する。「樫」は3発の直撃弾により缶室、電信室、射撃装置などが損傷して戦死者21名、負傷者20名を出す。第三十一戦隊司令部は陸上の高雄警備府に将旗を掲げた。「樫」はただちに基隆への回航を命じられ、1月24日同地に到着した。1月27日には基隆に松型5隻(樫、梅、榧、杉、楓)が揃ったが、「梅」と「楓」は駆逐艦「汐風」と共にルソン島からの航空隊関係者脱出作戦に投入され、1月31日にバシー海峡で空襲により「梅」が沈没、「楓」も損傷した。応急修理を続けていた「樫」は、2月1日に「杉」とともに出港し、舟山群島で南号作戦のヒ88A船団(「せりあ丸」〈三菱汽船、10,238トン〉、第205号海防艦、第41号海防艦)に合流して門司まで護衛を行った。ヒ88A船団部隊は2月7日門司に到着した。護衛終了後の翌8日に佐世保に帰投し、佐世保海軍工廠で修理が行われた。
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