南西方面への転戦、沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:03 UTC 版)
「天霧 (駆逐艦)」の記事における「南西方面への転戦、沈没」の解説
1943年(昭和18年)12月20日、天霧はタンカー照川丸を護衛してトラック泊地を出発、サイパンに向かった。21日未明、照川丸はサイパン島の南東遠方沖で米潜水艦スケートの魚雷を受け、同日夜に沈没した。天霧は救援に駆けつけた軽巡能代などと共同で約5時間に亘り乗員を救助し、22日にトラック泊地に戻った。26日、天霧はスラバヤに向かうタンカー日栄丸、旭東丸をパラオまで護衛するため卯月とトラック泊地を出撃。29日にパラオ近海で駆逐艦早波に引き継ぎ、天霧は31日にパラオに到着した。 1944年(昭和19年)1月9日、天霧は陸軍の大発動艇輸送特殊艦にぎつ丸を護衛してパラオを出発、呉に向かった。12日夜、米潜水艦ヘイクが雷撃し、にぎつ丸は沖大東島沖で沈没した。天霧は他の艦とも協力して約9時間で800人余を救助し、呉に帰投した。 2月下旬まで呉で修理し、南西方面の輸送船団を護衛するため、呉から門司に移動した。3月1日、天霧は第三水雷戦隊を外れて第19駆逐隊(浦波、敷波)に編入、体調不良で指揮が取れなくなった花見に代わり、艦長に吉永源少佐が就任した。同日、掃海艇30号と共にモタ07船団として門司を出撃し、9日に台湾・高雄港に到着した。13日、海防艦干珠と共にヒ53船団を護衛して南下し、18日にシンガポール到着した。4月2日、天霧、海防艦松輪、水雷艇鳩とヒ55船団を護衛中に米潜水艦ヘイクが攻撃し、油槽船たらかん丸が被雷して船体前部を切断されたが、船団はシンガポールに到着した。 天霧はダバオへの輸送作戦に参加し、20日に重巡青葉、軽巡大井とシンガポールを出発した。23日午後、天霧はマカッサル海峡で触雷。復旧叶わず、魚雷投棄と「君が代」吹奏後に総員退去が宣言され、乗員は艦後方から海上に飛び込んで脱出した(花見前艦長の教え子で機関長の西之園茂は退艦せず、艦と運命を共にした)。午後2時53分、天霧は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯2度12分 東経116度45分 / 南緯2.200度 東経116.750度 / -2.200; 116.750の海域で沈没した。幸い昼間であったうえに海上も穏やかであり、生存者180人は青葉と大井に収容された。6月10日、天霧は駆逐艦籍から除籍された。艦名は海上自衛隊の護衛艦あまぎりに引き継がれた。
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