南西太平洋軍
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「リチャード・サザランド」の記事における「南西太平洋軍」の解説
マッカーサーはこののち南西太平洋軍最高司令官の座におさまり、サザランドは引き続き参謀長として従うが、それは同時に、「憎まれ役」としてのサザランドの役割が増えたことを示した。実際、アメリカ陸軍とオーストラリア陸軍の下級将校からは、「マッカーサーはサザランドを過保護にしている」との認識が広まり、悪いニュースはマッカーサー自身よりサザランド経由のものが多かった。やがて、衝突も始まるようになった。マッカーサーと南西太平洋軍航空部隊司令官ジョージ・ブレット(英語版)中将との間に亀裂を作り、ブレットの後任であるジョージ・ケニー(英語版)少将も作戦会議でのいさかい、無地の紙に点々を描いたことが元でサザランドに不満であった。ケニーは言う。「点々は貴殿(サザランド)が航空作戦について知っていることを示し、私はその残りの部分を知っている」、「(サザランドは)エゴイストであり、空軍作戦について生半可な知識しかもっていない。」。 ケニーに航空の知識について斬られたサザランドだが、実際には1940年にフィリピン軍の訓練施設でアメリカ陸軍航空部のスタッフから講習を受け、航空協会から民間パイロットとしての免許が与えられていた。以降、航空機操縦はサザランドの趣味となり、オーストラリアに移ってからもしばしば飛行を楽しんだ。1943年3月、サザランドは非戦闘任務限定でもよいから軍のパイロットとして認めるよう要求したが、陸軍航空軍司令官「ハップ」ヘンリー・アーノルド大将は年齢を理由にこれを許可しなかった。1945年にいたり、フィリピン軍の許可範囲内でのものという条件付きながら、公式のパイロット免許が与えられた。 1943年、サザランドとケニーは、来る大統領選挙へのマッカーサーの出馬をアーサー・ヴァンデンバーグ上院議員と画策し、陸軍省からの横やりが入らないよう根回しを行った。マッカーサー自身が大統領職に興味津々だったこともあり、ルーズベルトの「恐ろしい対抗馬」 とも噂されたが、焚き付け役のヴァンデンバーグがマッカーサーに戦争終結が先決と説いたため、出馬話はそれっきりとなった。 サザランドはまた、統合参謀本部などでの打ち合わせに、マッカーサに代わる代表をしばし務めた。また、マッカーサー宛ての通信にすべて目通しを行い、選別してマッカーサーのもとに届けた。南西太平洋軍の進撃路はニューギニア島沿岸部が主であったが、サザランドは作戦策定にも多くかかわり、例えばミンダナオ島攻略を取り消してレイテ島に直接取りつくかどうかの決定は、マッカーサーではなくサザランドが行ったものである。それ以外の場面、対日主要反攻路の策定でもサザランドはマッカーサーの分身としてアメリカ海軍を大いに翻弄した。1944年1月27日から28日、サザランド、ケニー、第7艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド海軍中将、南太平洋軍参謀長ロバート・カーニー海軍少将(ウィリアム・ハルゼー海軍大将の代理)が真珠湾に集合して検討会議を開いたが、サザランドは開口一番「南西太平洋方面からフィリピンを目指すことが中国大陸への最短経路」と説けば、対案のマリアナ諸島攻略案についてケニーが「長距離爆撃機で日本を爆撃するのは曲芸だ」と一笑に付し、海軍側も思わずこれに同調した。サザランドはこの流れを見て南西太平洋進撃案が通ると判断し、マッカーサーに報告の電報を送った。ところが、太平洋艦隊作戦参謀フォレスト・シャーマン大佐から会合の中身を知らされた海軍作戦部長兼合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将が激怒し、紛糾の末にマリアナおよびニューギニアからの二方面作戦がカイロ会談の決定によるものであり、またアーノルドがキングに味方したこともあって、二方面作戦が本決まりとなった。この検討会議が開かれた翌月の1944年2月20日、サザランドは中将に昇進する。
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