ビアク‐とう〔‐タウ〕【ビアク島】
ビアク島
ビアク島
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「ウィリアム・フェクテラー」の記事における「ビアク島」の解説
「ビアク島の戦い」も参照 1944年1月18日、フェクテラーは少将に昇進。トーマス・C・キンケイド中将(アナポリス1908年組)率いる第7艦隊のスタッフとして加えられ、第77任務部隊(第8上陸支援部隊)司令官となった。第7艦隊はダグラス・マッカーサー陸軍大将の南西太平洋軍の陸上部隊とともにニューギニア島北岸沿いを西進しており、4月下旬にはホーランジアを制圧して(ホーランジアの戦い)ワクデ島も手中に収め、次なる目標はビアク島となった。守る日本軍の方針がぶれていた間隙を突き、フェクテラー率いる第77任務部隊に輸送された第41歩兵師団(英語版)(ホレース・ヒュラー(英語版)陸軍少将)は5月27日早朝、ビアク島南岸ボスネック海岸に上陸を開始する。第77任務部隊は7.5ノットの低速力であったが日本軍に全く見つからず、上陸は全くの奇襲となった。フェクテラーはオーストラリア海軍のヴィクター・クラッチレー(英語版)少将率いる第77.2任務群およびラッセル・S・バーキー(英語版)少将率いる第77.3任務群とともに火力支援に任じた。 5月27日午後、フェクテラーの旗艦である駆逐艦「サンプソン(英語版)」 (USS Sampson, DD-394) は依然としてボスネック海岸で火力支援を行っていたが、その時、超低空で4機の日本機が部隊に突入してきた。4機のうち2機は撃墜され、残る2機のうち1機は被弾して退散、最後の1機はフェクテラーが乗る「サンプソン」めがけて突入してきたが被弾の影響でわずかに外れ、駆潜艇SC-699に命中して爆発し、損傷を与えた。フェクテラーは無事であった。この攻撃は、日本陸軍飛行第五戦隊長高田勝重少佐率いる4機の「屠龍」によるもので、後刻「特攻のさきがけ」として「駆逐艦2隻撃沈、2隻大破」の戦果を挙げたと喧伝された。フェクテラーは第77任務部隊とともにモロタイ、レイテおよびリンガエンと馳せ参じ、1945年3月までその職にあった。
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ビアク島
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「フェニックス (軽巡洋艦)」の記事における「ビアク島」の解説
引き続き、ビアク島とチェンデラワシ湾への攻勢が始まった。マッカーサー大将はこの方面に重爆撃機の基地を建設することを計画していた。日本軍もビアク島に飛行場を建設していたが、滑走路1本が使用可能になった程度だった。5月25日、フェニックスはナッシュビルおよび軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) と共にフルボント湾を出撃、27日から始まったビアク島上陸を支援した。ビアク島には日本海軍の第28根拠地隊(司令官千田貞敏少将)と、日本陸軍の歩兵第222連隊(連隊長葛目直幸少将)が配備されていた。日本軍の抵抗は熾烈で、火力支援部隊が沿岸部の日本軍陣地を砲撃した際に、2隻の駆逐艦が反撃を受けて損傷した。フェニックスは5インチ砲を以って陣地を破壊した。 詳細は「渾作戦」を参照 この方面の日本海軍水上部隊を指揮していたのは、南西方面艦隊隷下の南西方面警戒部隊指揮官 (NSGB) 第十六戦隊司令官左近允尚正少将であった。南西方面艦隊や第四南遣艦隊、さらに連合艦隊の意見具申により、大本営は南方軍の海上機動第二旅団を海軍艦艇で輸送することに決定した。これが渾作戦である。本作戦に第二方面軍司令官阿南惟幾陸軍大将も大きな期待を寄せていた。 日本軍が増援部隊の派遣を検討する中、ビアク島では激戦が続いていた。日本陸海軍航空部隊は、ニューギニア島の西パプア州ソロンやバボを拠点に、ビアク島方面の連合軍に空襲を敢行した。6月4日、フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中、日本軍攻撃隊(零戦19、一式戦闘機 12、彗星 6)に攻撃された。日本側はホノルル型軽巡2隻、オマハ型軽巡2隻、駆逐艦8隻(実際は乙型巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ホノルル型1撃沈おおむね確実、オマハ型1隻に至近弾、グラマン2撃墜、零戦1未帰還(さらに着陸時3機大破)・彗星1未帰還を報じた。フェニックスには2機が攻撃を行い、対空砲火を打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準を狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾は至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片で負傷させた。別の1発はフェニックスの船体とスクリューに損害を与えた。ほかに姉妹艦ナッシュビルが至近弾で損傷した。翌6月5日の夜にもビアク島近海で一式陸上攻撃機小数機の航空攻撃を受けたが、対空砲火を打ち上げて追い払う。陸攻隊は巡洋艦1隻轟沈と駆逐艦1隻撃沈を報告し、全機帰投した。 フェニックスが僚艦と共にニューギニア北西岸を航行している頃、日本海軍の艦艇多数を投入した第一次渾作戦が実施されていた。第一次渾作戦部隊は6月2日夕刻にミンダナオ島ダバオを出発し、ビアク島にむかった。だが翌3日、B-24 2機に触接された上に「敵有力部隊ニューギニヤ北西部行動中」という理由で中止された。扶桑と第五戦隊はダバオに引返し、輸送部隊はラジャ・アンパット諸島のワイゲオ島を経由して6月4日夜、ソロンに入泊した。日本陸軍偵察機が「空母2隻、戦艦3隻、駆逐艦約10隻」を報じて、これを「敵有力部隊」と判断した結果だったが、実際はフェニックスを含む巡洋艦部隊であった。 6月8日から6月9日の夜にかけて、フェニックスはヴィクター・クラッチレー(英語版)少将(オーストラリア海軍)率いる第74任務部隊 (Task Force 74) の一艦として、ビアク島に逆上陸を試みる日本軍の動きを警戒していた。そんな最中、第二次渾作戦でビアク島に向けて進撃中の、日本軍駆逐艦5隻が任務部隊に迫りつつあった。左近允尚正少将は重巡青葉や軽巡鬼怒をハルマヘラ島バチャン泊地に退避させ、駆逐艦6隻のみで8日早朝にソロンを出撃、ビアク島を目指していた。だが、昼間にP-38とB-25の反跳爆撃で駆逐艦白露が小破、駆逐艦春雨が沈没し、第27駆逐隊司令白浜政七大佐が戦死した。それでもビアク島揚陸の決意を変えず、進撃を続けていたのである。 第74任務部隊(重巡オーストラリア、軽巡フェニックス、軽巡ボイシ、駆逐艦14隻)は夜戦で日本軍輸送部隊(駆逐艦5隻)を迎え撃った。しかしアメリカ艦隊を発見した左近允少将指揮下の輸送部隊は、魚雷を発射しつつ高速で退却する。圧倒的優勢の第74任務部隊はレーダーで砲撃をおこないつつ追撃したが、逃げ切られた。西野(時雨駆逐艦長)は、輸送部隊の最後尾にいた時雨に敵艦隊が距離約5,000mまで迫っていたと回想している。時雨は後部砲塔で反撃し、敵巡洋艦に命中弾5斉射を認めたが、敵弾2発が命中して戦死7名、重軽傷15名を出している。 時雨などを取り逃がしたフェニックスと僚艦は、ゼーアドラー湾に帰投した。日本海軍は大和型戦艦の投入を決断し、第三次渾作戦を開始した。ハルマヘラ島バチャン泊地に重量艦(大和、武蔵、妙高、羽黒、青葉)を含む渾作戦部隊が集結した。だがサイパン島の情勢が急変し、6月13日をもって第三次渾作戦は中止された。さらにマリアナ沖海戦が連合軍の勝利で終わると、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した。 一息ついたフェニックス達は整備をおこなった後、7月2日にヌムフォア島(英語版)を艦砲射撃し、上陸を支援した。砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵の死体や飛行機の残骸が漂流していた。続く9月15日からのモロタイ島の戦いでは、フェニックスはボイシ、ナッシュビル、シュロップシャーおよび重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共に、モロタイ島上陸部隊の援護のためハルマヘラ島を砲撃した。
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