西洞窟陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 05:53 UTC 版)
ビアク支隊の司令部が置かれていた西洞窟は、3層の床を張り最大時には2,000名を収容していた巨大な鍾乳洞であった。この頃には食糧も飲料水も不足し、将兵はわずかばかりの乾パンと鍾乳石から滴り落ちる嫌な味のする地下水で飢えと渇きをしのいでいた。そのため赤痢患者が続出し、洞窟内は糞尿と死体とから発する悪臭で充満していた。アメリカ軍による包囲の輪は日一日と狭まっていった。20日になるとアメリカ軍は洞窟のいくつかの入り口に火のついたガソリン缶を投げ込むようになった。同じ日にはアメリカ軍は残りの飛行場へ突入した。残っていた九五式軽戦車は西洞窟付近で全滅した。 葛目支隊長は6月21日に軍旗を奉焼し一旦は玉砕を決意するが、千田少将らの説得により配下の部隊ともども後方の高地へ脱出した。洞窟内の重傷病者約160人は自決した。ここに至って阿南方面軍司令官は25日、ビアク島への増援中止を決定、ビアク支隊に対して持久への転移を発令した。西洞窟は27日にアメリカ軍が制圧、同日、東洞窟の海軍19警も陣地を捨てて後方へ脱出した。 7月2日、葛目支隊長は戦い疲れ自決の道を選んだ。支隊長代理大森正夫少佐と千田少将以下の将兵はビアク島各地のジャングルに分散して自活し、友軍の再来を待つことになった。大森少佐が分散持久の第2軍命令を海軍通信隊経由で受領したのは7月中旬のことであった。この時の残存人員は1,600名余りまで減少していた。 日本軍将兵はジャングル内に食糧を求め、あるいは旧陣地の焼け残りの食糧やアメリカ軍の物資を盗んで自活を図ったが、次々と飢餓とマラリアに斃れていった。ビアク島への補給は7月上旬に1回実施された空中補給が最後となり、7月19日にビアク島を脱出してマノクワリへ帰還した海軍の森機関兵曹ほか若干名を最後としてビアク島と島外との連絡は絶えた。アメリカ軍は8月20日、ビアク作戦の終結を発表した。
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