ビアク島の戦い
ビアク島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:15 UTC 版)
「ニューギニアの戦い」の記事における「ビアク島の戦い」の解説
詳細は「ビアク島の戦い」を参照 ビアク島はニューギニア西部ヘルビング湾(現在のセンデラワシ湾)で最大の島である。石灰岩質の広く平坦な飛行場適地を有し、日本軍から見ればフィリピンから東部ニューギニアの前線へ至る飛行経路に、連合軍から見ればパラオとフィリピン南部を爆撃圏に収める位置にあった。日本軍は1943年12月に第36師団の歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊(支隊長:葛目直幸大佐)が島に上陸し、モクメル飛行場の建設を進ていた。 日本軍ではさらに北支から第35師団をビアク島へ転用し、玉突きで歩兵第222連隊をニューギニア本島へ移動させる計画であったが、第35師団は竹一船団による輸送途上で潜水艦攻撃を受けて大損害を被り、ニューギニア島西端のソロンまでしか到達できなかった。最終的にビアク島に配置できた兵力は、陸軍1万1,267名、海軍1,947名を数えたが、飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊が多数を占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊の3,815名を中心に、海軍陸戦隊を加えても4,500名に過ぎなかった。 1944年5月27日、アメリカ軍第41歩兵師団(1個連隊欠)がビアク島への上陸作戦を開始した。5月28日から29日にかけてアメリカ軍は飛行場へ向けて前進し、日本軍も九五式軽戦車9両が出撃して、M4中戦車との間で戦車戦が生起した。日本軍は戦車の大半を失ったが、アメリカ軍も逆包囲される危機に陥り後退した。飛行場占領の予定は大幅に遅れた。アメリカ軍は第34歩兵連隊を追加投入するとともに、第41歩兵師団長ホレース・ヒュラー少将は解任され、第1軍団長アイケルバーガー中将が直接作戦の指揮を取った。 第2方面軍は第35師団の第221連隊の1個大隊(マノクワリ在)等をビアク島に増援したが、大本営はビアク島守備隊の善戦を見て、本格的増援として海上機動第2旅団(旅団長:玉田美郎少将)を送り込む渾作戦を立案した。6月2日の第一次、6月8日の第二次作戦は誤判断や空襲により失敗した。連合艦隊司令部はビアク島周辺の水上部隊を撃破しない限り渾作戦は無理と判断、「大和」「武蔵」以下の戦力を整え第三次作戦を試みたが、6月11日にアメリカ機動部隊がマリアナ諸島へ来襲したため、ビアク島どころではなくなり作戦は中止となった。 ビアク島では司令部の置かれていた西洞窟が1か月の抵抗の末に6月27日についに陥落、葛目支隊長も7月2日に自決した。残存の各部隊はジャングルに逃げ込み分散自活し、アメリカ軍は8月20日、ビアク作戦の終結を発表した。日本軍の戦後の生還者は520名で、アメリカ軍の戦死者は471名、戦傷者2,443名であった。
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