北樺太石油南進隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 22:15 UTC 版)
クラモノ油田の位置 太平洋戦争中、南方で石油資源の獲得を進めていた海軍は、ニューギニア島西部にあるクラモノ(Klamono)油田の開発を行うこととし、第101燃料廠(本部・ボルネオ島)の下に調査隊を編成したが、燃料掘削と採油の技術者が不足していた。こうした中、北樺太石油はソ連の圧力により多くの社員が北樺太に渡航できず本土に留まっていたことから、社員315名を軍属として徴用することで海軍と合意し、常務取締役・片山清次(予備役海軍少将)引率の下、隊を結成した。 1944年2月1日に佐世保港を出発したが、当初は海軍の調査隊と合流することは極秘となっていたため、「北樺太石油南進隊」と呼称された。2月17日にスラバヤに到着。ここで二隊に分かれ、先発隊がニューギニア、残りはボルネオへ向かった。先発隊はアンボンを経てクラモノ油田で調査隊に合流するが、うち89名はビアク島の陣地構築作業に回された。彼らは1944年5月に始まったビアク島の戦いに巻き込まれ三々五々脱出を図ったが、生還したのは18名のみであった。ニューギニアの隊員も連合軍の進攻のため6月には作業を中止しボルネオへ撤退。当初の任務は完了したものの多くの隊員は帰国できず燃料廠の各地の油田に配属された。1945年(昭和20年)3月に40名がシンガポールから帰国の途についたが、乗船・阿波丸がアメリカ潜水艦の攻撃を受け沈没、全員死亡した(阿波丸事件)。最終的に他の死者を含め315名中160名が戦病死し、生存者の大部分は帝国石油に復職した。
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