北樺太利権の解消と会社消滅
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「北樺太石油」の記事における「北樺太利権の解消と会社消滅」の解説
1941年(昭和16年)に締結された日ソ中立条約の交渉過程で、ソ連は北樺太の利権解消を強く主張し日本と対立した。1940年(昭和15年)11月、ヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員は建川美次駐ソ大使に対し中立条約締結と利権解消を提案。これに対し日本政府は利権解消を拒否し、逆に日本への北樺太売却を打診したが相手にされなかった。1941年4月に行われた松岡洋右外務大臣とモロトフの会談で再度議論されたが、最終的には利権解消で決着した。中立条約締結時に取り交わされた松岡とモロトフの半公信に「北樺太利権の整理問題は数か月以内に解決するよう和解及び相互融和の精神をもって努力する」と盛り込まれた。松岡は北樺太利権の解消に積極的ではなかったが、利権があまり役立たないものとなっていたため解消を決め、他の閣僚には日本帰国後に説得するとして半公信を渡した。しかし半公信が非公表であったこともあり、日本政府はこの問題を放置した。 1941年6月に独ソ戦が始まるとソ連の北樺太石油への圧力は一時的に緩和したが、同年12月に期限を迎えていた試掘期間の再延長は拒否された。1942年(昭和17年)末に東部戦線の戦況がソ連有利に転じると再び圧力が増すようになる。そしてソ連は利権返還の約束を果たさなければ日ソ中立条約の破棄もやむを得ないと主張してきた。このため、1943年(昭和18年)になると日本政府はソ連との緊張を緩和するための交渉材料として、佐藤尚武駐ソ大使の建言を受けて、6月19日の大本営政府連絡会議で北樺太利権の有償譲渡を決定した。加えて、7月に北樺太へ食糧や生活物資を輸送していた用船が金華山沖で撃沈され事業継続困難になったことから、北樺太石油は8月1日に事業停止に着手、11月に留守番ほか社員約100名を残して北樺太から撤退した。 日ソ両国は1944年(昭和19年)3月30日、「北樺太の石油および石炭利権に関する移譲議定書」を締結。ソ連へ譲渡される資産の帳簿価格は2,174万円であったが、ソ連が請求してきた契約や法規違反の代償金と相殺され、当時の約400万円にあたる、わずか500万ルーブルの対価で北樺太の利権を放棄した。ただしソ連は「現在の戦争終了時から」5年間、毎年5万トンを日本へ供給することが定められた。これにより事業を失った北樺太石油は政府の斡旋を受けて、国内石油鉱業一元化のために設立された国策企業である帝国石油に7月1日に吸収合併されて消滅した。 なお北樺太石油は、太平洋戦争開始後、国内の石油技術者を南方へ送ったため人手不足となった帝国石油の八森油田(現在の秋田県八峰町にあった)を1942年12月から経営受託していた。1944年時点で八森油田の103名を含め従業員は904名であったが、一部の社員は「北樺太石油南進隊」(後述)として海軍に徴用され、残りは帝国石油に移籍した。
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