日ソ中立条約の交渉とは? わかりやすく解説

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日ソ中立条約の交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:13 UTC 版)

東郷茂徳」の記事における「日ソ中立条約の交渉」の解説

1938年昭和13年)に東郷は駐ソ大使として赴任したそれ以前状況としては、1936年昭和11年)に締結され日独防共協定影響日ソ関係悪化しており、前任重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後東郷対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商ノモンハン事件勃発後の交渉通じていくうちに互い認めあう関係が構築され東郷は「日本国益熱心に主張した外交官」として高く評価された。こうした状況好転踏まえ東郷悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争支那事変)の打開のため、日本側はソビエト蔣介石政権への援助停止ロシア側は日本側の北樺太権益放棄条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。 しかし、第2次近衛内閣成立し松岡洋右外務大臣となると北樺太権益放棄反対する陸軍意向を受け、東郷には帰朝命令出されてしまう。松岡暗に東郷外務省退職求めるが、東郷逆に懲戒免職求めて相手にしなかった。 なお、その後松岡締結した日ソ中立条約は、日独伊三国同盟成立していたこと、北部仏印進駐によってアメリカ対日経済制裁強まってしまっていたこと、ソ連ナチスドイツとの関係悪化したことなどによって、当初東郷意図してたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。結果としてソ連ナチスドイツ侵攻備えるための意味日本大陸での南進への間接的な援護の意味しか持たないものとなった加えて日本側の北樺太権益放棄もない代わりにソ連側蔣介石政権への援助停止盛り込まれない内容となったことにより、東郷には不満が残る結果となった外相経験もある元老西園寺公望は、東郷松岡によって駐ソ連大使更迭され外務省から追われそうだとの風説を自らの死の床にて聞き及び深く慨嘆したと言われている。

※この「日ソ中立条約の交渉」の解説は、「東郷茂徳」の解説の一部です。
「日ソ中立条約の交渉」を含む「東郷茂徳」の記事については、「東郷茂徳」の概要を参照ください。

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