日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言
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「北方領土問題」の記事における「日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言」の解説
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。 1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日になって態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はソ連側の妥協を受け、これで平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は国後・択捉も含めた北方四島全てが日本領であるとの意向を示したため、交渉は行き詰まった。 1956年7月、重光葵外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。しかし、当時、保守合同で発足した自由民主党の党内には派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日に重光外相はロンドンで行ったアメリカのダレス国務長官との会談の席上、ダレスに択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求される。この中でダレスは「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と述べたとされる。ダレスの沖縄の米国領有の根拠はサンフランシスコ平和条約第26条の「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」を適用するものとされた。なお、この会談の記録は外務省に保管されており、鈴木宗男が2006年2月、松本の書籍の内容が事実であるかどうかを政府に質問したが、政府は今後の交渉に支障を来たす恐れがあるとして、明確な回答を一切避けた。 自民党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の干渉などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。 1956年、かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた鳩山一郎首相は局面を打開すべく自ら訪ソしようと考えた。領土問題を棚上げにして戦争状態の終了と、いわゆるシベリア抑留未帰還者問題を解決する国交回復方式(アデナウアー方式)に倣うものとし、この場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要だった。鳩山訪ソに先立ち松本俊一が訪ソし1956年9月29日にグロムイコ第一外務次官との間で「領土問題をも含む平和条約締結交渉」の継続を合意する書簡を取り交わした。 同10月12日に鳩山首相が訪ソ、ブルガーニン首相らと会談。実質的交渉は河野一郎農相とフルシチョフ党第一書記との間で行われた。日本側は歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の継続協議を共同宣言に盛り込むよう主張したが、フルシチョフは歯舞・色丹は書いてよいが、その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない、歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張した。18日午後の会談で、河野が提示した案文に対しフルシチョフは平和条約締結交渉の継続を意味する「領土問題を含む」との字句を削除したいと述べ、河野はソ連側からの案文をそのまま採用したものだとして反論、河野は総理と相談するとして辞し、同日中にフルシチョフを再訪し、字句削除の受け入れを伝えた。ただし日本側は「松本・グロムイコ書簡」を公表することで説明をつける考えであり、ソ連側の了解を得て公表された。
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