日ソ国境紛争
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日ソ国境紛争(にっそこっきょうふんそう、旧字体:日蘇國境紛󠄁爭、ロシア語: Советско-Японские Пограничные Конфликты、モンゴル語: Зовлолт-Японы Хилийн Морголдоонууд、朝鮮語: 소련일본국경분쟁/蘇聯日本國境紛爭)は、1932年-1939年後半を中心に満洲で起きた、大日本帝国とソビエト連邦間の国境紛争である。形式的には満洲国とソ連、あるいはその衛星国のモンゴル人民共和国の国境が係争地のため、満ソ国境紛争や満蒙国境紛争とも呼ばれる。なお、日本およびソ連では一般に紛争にとどまるものととらえているが、モンゴルではノモンハン事件については戦争と評価している。
- ^ a b c d e 「満州国建国(昭和七年)以降満ソ国境紛争に関する概見表」戦史叢書 関東軍 (1) 310~311頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 329~331頁。
- ^ マクシム・コロミーエツ『ノモンハン戦車戦』大日本絵画〈独ソ戦車戦シリーズ〉2005年、31~32頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 311~312頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 314頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 320、328~329頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍(1)、320頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 323~324頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 327頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 314~315頁。
- ^ a b 「国境紛争に関する日満抗議提出件数等概見表」戦史叢書 関東軍 (1) 313頁。
- ^ ただし、戦史叢書によれば、実質的には日ソ交渉であったという。戦史叢書 関東軍 (1) 313頁。
- ^ 鎌倉 267~268頁。
- ^ 鎌倉 269頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 421頁。
- ^ 鎌倉 83~85頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 423頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 329、332頁。
- ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 334頁。
- ^ コロミーエツ 101、125頁。ただし、日本軍の動員兵力の約半数は停戦間際の到着。また、日本軍の損害に満洲国軍の損害は含まれていない。
日ソ国境紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
詳細は「日ソ国境紛争」を参照 満州事変以後、1934年頃までは紛争といっても、偵察員の潜入や住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯程度の小規模なものだった。1935年に入ると国境紛争の規模が大型化したが、これはソ連側の外交姿勢の高圧化によるとされる。ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍参謀本部と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団高級参謀の片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた。 1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した。以降、満州軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させ、軍事衝突が増えた。6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。 10月、モンゴルのペルジディーン・ゲンデン首相が「ソ連は唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助を求めた。 12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。関東軍は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があれば止むを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した。 1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件)。
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日ソ国境紛争
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詳細は「日ソ国境紛争」を参照 日ソ国境紛争はソビエト連邦と日本の間で1938年から1945年まで続いた国境紛争である。 満州国と朝鮮の支配権を確立した後の日本はソビエト連邦の領土に軍事的な関心を再び持つようになった。日本とソビエト連邦の間の紛争は満州の境界付近で度々起きた。最初の衝突は沿海地方で起きた。張鼓峰事件は満州国がソビエト連邦が自国領と主張する地域に対して軍事的な侵攻を試みるものであった。この侵攻はソビエト連邦が北京条約においてロシア帝国と清が交わした国境策定に関して認識を誤っているという日本の考え方から行われたものであった。沿海地方は残る国境紛争のすべてが満州国内で起きたにも関わらず、常に日本の侵攻を脅威に感じていた。弱体化した日本がその支配領域を満州国、蒙古聯合自治政府、南サハリンとしたことで、この紛争は第二次世界大戦前に短期間で終了した。
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