日ソ国境紛争とは? わかりやすく解説

日ソ国境紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 09:41 UTC 版)

日ソ国境紛争(にっそこっきょうふんそう、旧字体日蘇國境紛󠄁爭ロシア語: Советско-Японские Пограничные Конфликтыモンゴル語: Зовлолт-Японы Хилийн Морголдоонууд朝鮮語: 소련일본국경분쟁蘇聯日本國境紛爭)は、1932年-1939年後半を中心に満洲で起きた、大日本帝国ソビエト連邦間の国境紛争である。形式的には満洲国とソ連、あるいはその衛星国のモンゴル人民共和国の国境が係争地のため、満ソ国境紛争満蒙国境紛争とも呼ばれる。なお、日本およびソ連では一般に紛争にとどまるものととらえているが、モンゴルではノモンハン事件については戦争と評価している。


  1. ^ a b c d e 「満州国建国(昭和七年)以降満ソ国境紛争に関する概見表」戦史叢書 関東軍 (1) 310~311頁。
  2. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 329~331頁。
  3. ^ マクシム・コロミーエツ『ノモンハン戦車戦』大日本絵画〈独ソ戦車戦シリーズ〉2005年、31~32頁。
  4. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 311~312頁。
  5. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 314頁。
  6. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 320、328~329頁。
  7. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、320頁。
  8. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 323~324頁。
  9. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 327頁。
  10. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 314~315頁。
  11. ^ a b 「国境紛争に関する日満抗議提出件数等概見表」戦史叢書 関東軍 (1) 313頁。
  12. ^ ただし、戦史叢書によれば、実質的には日ソ交渉であったという。戦史叢書 関東軍 (1) 313頁。
  13. ^ 鎌倉 267~268頁。
  14. ^ 鎌倉 269頁。
  15. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 421頁。
  16. ^ 鎌倉 83~85頁。
  17. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 423頁。
  18. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 329、332頁。
  19. ^ 戦史叢書 関東軍 (1) 334頁。
  20. ^ コロミーエツ 101、125頁。ただし、日本軍の動員兵力の約半数は停戦間際の到着。また、日本軍の損害に満洲国軍の損害は含まれていない。



日ソ国境紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「日ソ国境紛争」の解説

詳細は「日ソ国境紛争」を参照 満州事変以後1934年頃までは紛争といっても、偵察員の潜入住民拉致航空機による偵察目的での領空侵犯程度小規模なのだった1935年に入ると国境紛争規模大型化したが、これはソ連側外交姿勢高圧化によるとされるソ蒙相互援助議定書締結もこの時期であり、ソ連軍極東兵力増加進んだ。この時期日本は、陸軍参謀本部関東軍司令部いずれも不拡大方針一致していた。前線部隊でも、騎兵集団高級参謀片岡董中佐らが慎重な行動図り紛争拡大歯止めをかけることに寄与していた。 1935年1月満州西部フルンボイル平原満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件発生。哈爾哈廟周辺占領したモンゴル軍に対して満州軍攻撃をかけ、月末には日本関東軍所属騎兵集団出動したが、モンゴル軍退却した以降満州軍フルンボイル平原監視部隊常駐させ、軍事衝突増えた6月にはソ連接した満州東部国境でも、日本巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する木林事件発生した10月モンゴルペルジディーン・ゲンデン首相が「ソ連唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助求めた12月オラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴルに対して翌年2月日本軍騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本雄大尉)を出動させた。杉本支隊装甲車を含むモンゴル軍遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍退去した。関東軍不拡大方針強調する一方戦術上の必要があれば止むを得ず越境することも許すとした方針決め独立混成第1旅団一部などをハイラル派遣して防衛体制強化した1936年1月には金廠溝駐屯満州国軍集団脱走事件発生し匪賊化した脱走兵と、討伐出動した日本軍満州国軍合同部隊の間で戦闘発生その際脱走兵ソ連領内逃げ込み加えてソ連兵死体ソ連製兵器回収されたことから、日本側ではソ連扇動工作があったと非難した金廠溝事件)。

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日ソ国境紛争

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極東ロシア」の記事における「日ソ国境紛争」の解説

詳細は「日ソ国境紛争」を参照 日ソ国境紛争はソビエト連邦日本の間で1938年から1945年まで続いた国境紛争である。 満州国朝鮮支配権確立した後の日本ソビエト連邦領土軍事的な関心を再び持つようになった日本ソビエト連邦の間の紛争満州境界付近で度々起きた最初の衝突沿海地方起きた張鼓峰事件満州国ソビエト連邦自国領と主張する地域に対して軍事的な侵攻試みるものであった。この侵攻ソビエト連邦北京条約においてロシア帝国と清が交わした国境策定に関して認識誤っているという日本考え方ら行われたものであった沿海地方は残る国境紛争のすべてが満州国内で起きたにも関わらず、常に日本侵攻脅威感じていた。弱体化した日本がその支配領域満州国蒙古聯合自治政府、南サハリンとしたことで、この紛争第二次世界大戦前短期間終了した

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