日ソ交渉
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同年6月3日、ロンドンで日ソの国交回復交渉が始まったが、北方領土の扱いを巡り日ソ両国は衝突し交渉決裂となる。この交渉において2島返還などの譲歩を示していたにも関わらず拒否された形となったソ連は、「漁業制限区域」を設定し日本の漁船を一方的に締め出すという報復に出た。水産業界への打撃は大きく、そこで水産業を所管する農林相であった河野に白羽の矢が立った。日ソ漁業条約を結ぶべく、河野はモスクワへ向かった。1956年4月29日、イシコフ漁業相との交渉が始まるが進展は無かった。埒が明かないと踏んだ河野はブルガーニン首相との直接交渉を要請し、受け入れられた。会談で、ブルガーニンは「日露戦争で貴国が勝った時には、樺太も取れば、漁業の権益も取った。今度は負けたのだから、こっちのいうことを聞くのが当たり前ではないか」と主張し、さらに「私の方でいま残っているのは、国後、択捉の問題だけであって、あとは全部、貴国のいい分を聞いているのだから、問題は解決しているのと同じだ」と述べた。これに対し河野は 「あなたが世界の平和に寄与しようという考えがあるならば、当面の漁業問題が一体なんであろうか。これくらいのことがソ連の総理大臣としてできないのか。それができないならば、あまり偉そうな議論はしない方がよい。」 と反論した。ブルガーニンは「よくわかった」と答え、その場でイシコフに協力を指示し、漁業条約は締結された。また、国交正常化の交渉を7月31日までに開始することでも合意した。調印式を終えて帰国した河野を、羽田空港では数千人が出迎えた。 1956年、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月には日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。1957年(昭和32年)の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣下では党総務会長に就任。しかし、1959年(昭和34年)6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決で、河野派は三木派とともに欠席した。 岸退陣後の自民党総裁公選では党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派(旧吉田派)の池田勇人に敗れる。一時、河野新党の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。1962年(昭和37年)7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックに向けた道路や施設の整備に辣腕をふるう。建設大臣を2年務めた後、1964年(昭和39年)7月の第三次池田内閣では、副総理、東京オリンピック担当の国務大臣に横滑りした。この人事が決まった際、河野は「オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。あとは文部大臣の管轄ではないのか」と必ずしも歓迎しない反応を新聞記者に示している。 1963年(昭和38年)7月には、右翼の野村秋介らに、自宅を焼き討ちされている(河野一郎邸焼き討ち事件)。 1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名で佐藤栄作に落ち着いた。 1964年11月9日発足の第1次佐藤内閣では、副総理兼体育振興のスポーツ担当大臣を務めたが、1965年(昭和40年)6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否。1ヶ月後の7月8日、大動脈瘤破裂のため急死した。享年67。死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。
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日ソ交渉
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日ソ中立条約の不延長通告の後も、日本はソ連を仲介者とする連合国との和平工作を行っていた。新たに成立した鈴木貫太郎内閣は、発足してから戦争を終結に導くため首脳部の懇談会を持ち、「国体護持」と「国土保衛」を戦争目的とした。だが連合国は「無条件降伏」を主張してくるため、これを受諾することはできず、外交においては和平工作を推進し、軍事面では外交交渉を少しでも有利に進めるために、最低限国体護持を包括する和平へ導くため戦争を継続することが決定された。この政策は木戸幸一内府が試案を起草し、試案において現在の日本の状況が危機的であり、和平の外交交渉が早急に必要であると論じた。そして当時中立条約を締結していたソ連を介し、アメリカ・イギリスと最低限の条件で名誉ある講和を実現し、海外の部隊は撤退、軍事力も国防に必要な最低限に縮小することが述べられている。この試案は1945年6月9日に天皇及び首相、陸海軍などと協議し、実行に移すことが決まった。 ただし、この政策には当初から反対もあった。東郷外相はソ連の対日政策はすでに挑戦的なものへと移行しており、実現する可能性は低いとして対ソ和平交渉政策に同意していない。しかし鈴木首相は、可能性を模索する意味で対ソ交渉政策を進めていた。また、東郷も内閣発足より陸軍側からソ連の対日参戦を防ぐためにソ連との外交交渉を求めてきたことを重視し、陸軍の抵抗を抑えながら無条件降伏以上(すなわち「国体護持」)の講和を導ける可能性があるのは現状ソ連の仲介しかないこと、ソ連が実際に参戦すれば日本にとって致命的になるという判断からこれを進めることになった。
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