モスクワへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:16 UTC 版)
「ミハイル・ゴルバチョフ」の記事における「モスクワへ」の解説
1978年11月、急死したフョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として党中央委農業担当書記に抜擢される。ゴルバチョフの書記への任命は中央委員会総会において満場一致で承認された。ゴルバチョフと妻のライサはモスクワに引っ越し、国家から邸宅が与えられることになった。1979年には政治局員候補として政治局入りする。彼はその新しい役職で、しばしば1日あたり12時間から16時間働いたという。この際、ゴルバチョフは過度に中央集権化された国の農業管理システムに対する懸念を強めていき、1978年の中央委員会で問題提起を行った。彼は、他のソビエトの政策についても問題意識を持ち始めた。1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻も誤った政策だと考えていた。しかし、時に彼は公然と政府の立場を支持した。例えば、1980年10月にソビエト政府がポーランド政府に対して同国内での批判意見の取り締まりを要請した際にはそれを支持した。そして同月の党中央委員会総会で史上最年少の政治局員となる。 1982年11月に党書記長のレオニード・ブレジネフが死去し、新たにユーリ・アンドロポフが書記長に就任する。アンドロポフは同じ改革派であるゴルバチョフに目をかけ、ゴルバチョフの中央への昇進に重要な役割を果たしたと同時に、ゴルバチョフにとって同郷の先輩でもあり、政治局内で最も信頼の置ける人物であった。ゴルバチョフは政治局内におけるアンドロポフの最側近として、時には同書記長の指名により政治局会議の議長を任せられた。アンドロポフはゴルバチョフを自身の後継者に考えていたようであり、ゴルバチョフに農業以外の政策分野へも携わらせ、経験を積ませた。1983年4月にはレーニン生誕113周年記念集会での演説を任せられた(前年に演説したのはアンドロポフ)。ゴルバチョフはアンドロポフが自由化改革を実行することを期待していたが、同書記長の健康状態の悪化などから人事異動のみが実施されるに留まった。 1983年にカナダを訪問し、カナダのピエール・トルドー首相(当時)と会談する。この時に駐カナダ大使で、後にゴルバチョフの側近としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフと面識を持つ。さらにイギリスを訪問し、マーガレット・サッチャー首相(当時)から「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。 1984年2月にアンドロポフが死去すると、同書記長による後継指名にも関わらず、ゴルバチョフは書記長に選出されなかった。中央委員会の多くは53歳のゴルバチョフでは若すぎであり経験不足であると判断したことに加え、改革派であるゴルバチョフの選出を保守派のニコライ・チーホノフ首相やドミトリー・ウスチノフ国防相らが頑なに阻んだためである。代わりに書記長となったのはアンドロポフの政敵で、保守派のコンスタンティン・チェルネンコであった。しかし就任当初から病弱であったチェルネンコは、直々にゴルバチョフを事実上のソ連ナンバー2にあたる「第二書記」へ指名した。しかしこの際、チーホノフらがチェルネンコの発案に反発したため、ゴルバチョフは正式な承認を経ずして同職を遂行することとなった。結果的に、チェルネンコの不在時にはゴルバチョフが中央委員会の職務に当たることとなり、ゴルバチョフの役割は拡大していくこととなった。そして、ゴルバチョフは次第に改革派としてその名が知られるようになる。
※この「モスクワへ」の解説は、「ミハイル・ゴルバチョフ」の解説の一部です。
「モスクワへ」を含む「ミハイル・ゴルバチョフ」の記事については、「ミハイル・ゴルバチョフ」の概要を参照ください。
- モスクワへのページへのリンク