ソ連軍によるアフガニスタン侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:01 UTC 版)
「アフガニスタン」の記事における「ソ連軍によるアフガニスタン侵攻」の解説
1979年12月24日、ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。ソビエト連邦共産党書記長ブレジネフが、領内の中央アジア諸国にイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるとされているが、米国カーター政権のズビグネフ・ブレジンスキー国家安全保障問題担当大統領補佐官がソ連の介入を誘い込んだと言われている。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘が激化する。 1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。 1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。
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