ソ連軍による略奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 10:02 UTC 版)
「プリアモスの財宝」の記事における「ソ連軍による略奪」の解説
ウンフェアツァークト博士は2人の同僚とともに高射砲塔のコレクションを飛行場に届けるために荷造りし、財宝は5月13日にトラックで運ばれて行った。博士はソ連の政府高官の立会いを要求することなく、「トロイアの黄金」は5月26日に占領当局に正式に引き渡された。この機会にベルリンに派遣された代表団には美術史家ヴィクトル・ラザレフ(英語版)と美術委員会の輸送局長アンドレイ・コンスタンティノフ(Andreï Konstantinov)が含まれていた。1945年6月30日、プリアモスの財宝は最初の戦争略奪品の1つとしてヴヌーコヴォ国際空港に到達し、7月10日にはプーシキン美術館のコレクションに加わった。しかし財宝が展示されることはなく、そのまま行方不明となり、一般的に失われたか破壊されたと考えられていた。同じようにソ連に略奪されて行方の分からなくなったものに、エーベルスヴァルデの財宝(英語版)や、ゴータのルーカス・クラナッハの絵画などがある。 ソ連が財宝を隠匿していることが判明したのは、グレゴーリ・コズロフ(Gregori Koslov)が文化省のアーカイブを調べた1987年9月になってからである。とりわけ、コズロフはプーシキン美術館の元チーフキュレーターであるノラ・エリアスベルク(Nora Eliasberg)によって署名された「ベルリン、ハンブルク民族学博物館の、トロイアの偉大な財宝の注目すべきオブジェクト」と題された文書を発見した。これはプリアモスの財宝がプーシキン美術館に保管されていることを裏付けた。ソ連の戦時捕獲物の極秘の保管所の公表に強く反応した同美術館の館長イリーナ・アントノワ(英語版)は憤慨し、その秘密がそれまで保持されてきた事実を正当化した。1991年10月、文化大臣ニコライ・グベンコ(英語版)は記者会見で、シュリーマンの黄金がどこにあるのか知らないと主張し、その代わりに西側の同盟国が所有している可能性を示唆した。コズロフはアーキビストの友人たちに財宝に関する言及がないか、ソ連中央国家文学芸術資料館(Central Archives of Literature and Fine Arts)を調査するよう依頼した。その中の1人は結局すべての行政文書に出くわした。これらの文書のいくつかは雑誌アート・ニュース(英語版)に掲載されたが、公的にはロシアでの所在について反論が続けられた。
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