ソ連軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:46 UTC 版)
8月18日午前2時半頃(日本時間)、ソ連軍先遣隊の海軍歩兵大隊が占守島竹田浜から上陸した。ソ連軍は武器の過重積載のため接岸できず、泳いでの上陸であった。 竹田浜を防衛する独立歩兵第282大隊は直ちにこれを攻撃し、ソ連軍も艦砲射撃を行ったほか、ロパトカ岬からの支援砲撃を開始した。この際、日本軍の攻撃とソ連の艦砲射撃はどちらが先であったのかについて、両軍とも自軍が先であったとしている。先遣隊には軽微な損害はあったが、上陸開始後30分ほどで海岸に上陸し、沿岸陣地は無視して島の奥深く前進した。 3時30分頃、ソ連軍上陸部隊の主力第一梯団(第138狙撃連隊基幹)が上陸を開始した。日本軍は激しい砲撃を加えて上陸用舟艇13隻撃沈破を報じ、ソ連側によると指揮官艇を含む上陸用舟艇2隻が炎上、複数が損傷する等の損害を受けた。7時ごろに第一梯団の上陸は完了したが、重火器は対戦車砲4門のみで、司令部が海没したために部隊の統制は乱れていた。ソ連軍は艦砲射撃などで日本軍砲台の制圧を試みたが、効果が無かった。第二梯団(第373狙撃連隊基幹)の上陸は、続けて午前7時頃に開始された。日本軍の砲撃のため上陸に手間取り、午前10時頃になって上陸は完了したが、依然として火砲の多くは輸送船に残されたままだった。 「一式戦闘機#千島航空戦」も参照 日本軍は第91師団部隊を掩護すべく陸海軍の飛行部隊も出撃させたが、対空砲火で九七式艦上攻撃機1機を失い、ソ連側によると特に戦果はなかった(ただし、日本軍側の証言によれば、未帰還となった艦攻1機は、ソ連軍艦艇を攻撃中に対空砲火により被弾し、別のソ連軍艦艇1隻に体当たり攻撃して自爆したとされている)。一式戦は九七艦攻を掩護するとともに掃海艇を攻撃している。なお、翌19日にも九七艦攻がソ連軍艦艇を攻撃し、その中の1機が赤軍掃海艇КТ-152に特攻し、これを撃沈した 。生還した九七艦攻のうち着陸時に1機が損傷した。 上陸したソ連軍部隊は、日本軍の激しい抵抗を受けるようになったが、午前4時頃には四嶺山に接近。四嶺山をめぐってソ連軍と日本軍の間で激戦が行われた。悪天候のため、ソ連軍は航空機により陸上部隊を直接支援することは出来なかった。 当初、日本側は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識するに至った。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる戦車第11連隊に対し師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。同時に他の第73旅団隷下部隊に対してもできる限りの兵力を集結して全力でこの敵に当たるように命じ、幌筵島の第74旅団にも船舶工兵の舟艇による占守島への移動を命じた。これを受けて戦車第11連隊は直ちに出撃し、第73旅団でも沼尻に配備されていた独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二少佐)をソ連軍の東翼へ差し向け、その他の隷下部隊を国端崎へ前進しようとした。 戦車第11連隊は、18日午前6時50分頃から連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退し、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させた。ソ連軍は対戦車火器(対戦車砲4門、対戦車ライフル約100挺、対戦車手投黄燐弾など)を結集して激しく抵抗し、日本戦車を次々と擱座・撃破したが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を先頭に参戦すると、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退した。戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む97名の戦死者を出した。 詳細は「池田末男#占守島の戦い:四嶺山の戦闘」を参照 その後、日本側の独歩第283大隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪還した。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい戦闘となった。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側への集結を援護することに成功した。この戦闘の間、ロパトカ岬からソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本陸軍の九六式十五糎加農1門が応戦して全門の制圧を報じている。 18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、実際には戦闘は続いた。夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島転進を終えた。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送の攻撃を行ったが、阻止するには至らなかった。樋口は大本営に現状を報告。大本営は米軍を率いるマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼したが、スターリンはこれを黙殺した。 18日16時は停戦時間であったが、なおもソ連軍上陸部隊(狙撃連隊2個と海軍歩兵大隊)は、日本軍に対して攻撃を仕掛けた。艦隊とロパトカ岬からの砲撃も手伝い、幅4km、深さ5 - 6kmにわたって橋頭堡を確保した。すでに反撃行動を停止していた日本軍は、無用の損害を避けるため後退した。ソ連軍航空部隊は間欠的に夜間爆撃を行った。ソ連軍の重砲・自動車など重量のある貨物の荷降ろしが完了したのは、翌日に日本側沿岸拠点に停戦命令が届き、その砲撃が無くなってからだった。
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