ソ連軍の反撃
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「ドイツ陸軍 (国防軍)」の記事における「ソ連軍の反撃」の解説
クルスクの戦いで戦力が激減したドイツ東方軍に対し、ソ連は圧倒的な物量で反撃に出た。その戦力差はドイツ軍3個軍集団に対しソ連軍8個方面軍というまさに圧倒的な差であった。 ソ連の反撃は長期間にわたり、レニングラード、ハリコフ、キエフなどの重要な都市および軍事拠点は次々に奪還された。既にドイツ東方軍に組織的な機動防御力はなく、マンシュタイン元帥は全面撤退を要求するが、ヒトラーは逐次撤退しか認めず、クリミア半島の軍には死守命令を発令した。 後退するドイツ軍にとって天然の防衛線として映ったのは父なるドニエプル川である。1943年末には、ソビエトはキエフ付近でわずかにドニエプル以西の地を噛みとっていたに過ぎなかった。ソビエトはまず南方で攻勢に移り、春までにはウクライナの大部分を奪回してルーマニア国境を越えた。ヒトラーは敗戦の責任をマンシュタイン南方軍集団司令官に押し付け、1944年3月に罷免した。春の泥の季節を迎えたとき、ドイツ中央軍集団の戦線は不気味な突出部となっていたが、それに対応して何かをする力はもうドイツにはなかった。対応すべき別のものが、西方に迫っていたからである。
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ソ連軍の反撃
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ドイツ軍の攻撃は止まったにも関わらず、ドイツの諜報機関はソ連軍がこれ以上予備兵力を持っておらず、反攻する事はできないと想定していた。この推定が間違っている事は、スターリンが開戦前にシベリアと極東から移送した18個師団、戦車1700両、飛行機1500機以上の予備兵力を投入する事で証明された。ジューコフとヴァシレフスキーの提案した攻勢が最終的にスターリンに許可される12月の初めまでの間に、赤軍は58個師団を蓄えた。これらの新しい予備兵力を加えてもなお、ソ連軍は反攻作戦に1,100,000名の兵士しか作戦に投入できず、ドイツ軍にわずかに兵力で劣っていた。それにも関わらず、軍の用心深い展開により、いくつかの決定的な地点では兵数はドイツ軍に対して優位を確保した。 1941年12月5日、モスクワへの直近の脅威を取り除くための反攻作戦がカリーニン方面軍により開始された。西方面軍の攻撃は翌日に開始された。数日後の僅かな先進により、ソ連は12月12日にソルネチノゴルスクを、12月15日にクリンを奪還した。グデーリアンの軍はヴェニョーフとスヒーニチから立て続けに撤退した。トゥーラに差し迫った脅威はこうして取り除かれた:44–46, 48–51。 12月8日ヒトラーは総統司令39号を発令した。この司令は全戦線において防御体制を取る事を命じた。ドイツ軍はその時いた地点では強固な防御を固めることができず、戦線を強化するために退却せざるを得なかった。グデーリアンはハンス・シュミットとヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンと同日に行った議論を書き留めており、両司令官は現在の戦線を維持することはできない事に同意していた。12月14日、フランツ・ハルダーとギュンター・フォン・クルーゲは最終的にヒトラーの許可なしにオカ川の西まで限定的に撤退することを認めた。12月20日ドイツ軍の高官による会議で、ヒトラーは撤退を取り下げ、兵士たちにそれぞれの持場を守るよう命じ、"必要なら榴弾で塹壕を掘れ"と述べた。グデーリアンは寒さによる損害が実際には戦闘による損害を上回っており、耐寒装備はポーランドでの物流の制約により行き渡っていない事を指摘した。それにも関わらず、ヒトラーは現在の戦線を守るよう主張し、グデーリアンは第4装甲軍のヘプナー将軍と第9軍のシュトラウス将軍と共に12月25日に解任された。フェードア・フォン・ボックは公式には"健康上の理由で"解任された。ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官はさらに早く12月19日に解任された:42。 一方ソ連の攻勢は北部でも続いた。この攻勢によりカリーニンは解放され、12月7日にはクラインに到達した。クラインにはドイツ第LVIII装甲軍団司令部が都市の外側に集まっていた。カリーニンで戦線が西に動くと同時に、突出部がクライン周辺に形成された。カリーニン方面軍司令官イワン・コーネフは残存するドイツ軍を包囲しようと試みた。ジューコフは多くの部隊を突出部の南端へと転換させて、コーネフの第3装甲軍に対する罠を支援した。この包囲は失敗したが、ドイツ軍はこの地域の守備を解き、撤退した。2回目の試みはトゥーラ近郊の第2装甲軍に対して行われたが、ルジェフ付近で強力な抵抗により、停止せざるを得ず、この地域の突出部は1943年3月まで形成され続けた。南部では、攻勢はうまく行き、ブリャンスク方面軍は1941年12月16日にトゥーラを救出した。主要な目的は第XXXIX軍団の包囲と殲滅であった。第XXXIX軍団はグデーリアンの第2装甲軍の南翼を守っていた。 ドイツ空軍は12月の後半に無力化された。この時気温は-42℃を記録し、これは当時の最低気温を記録した。補給の困難と凍りつく気温により1942年1月まで技術上の困難を生み出した。その間ドイツ空軍は事実上モスクワの上空から消えた一方、ソ連空軍はより整った基地から作戦を遂行でき、内線と部隊の強化の恩恵を受けられた。1月4日、空は澄み切っていた。ヒトラーはこの状況を救済することを望んだので、ドイツ空軍は速やかに強化された。ドイツ本国で再編成された第4爆撃航空団と第30爆撃航空団が到着する一方、102機のJu 52を保有する4つの輸送航空団が包囲された部隊の補給と撤退のため、第4航空艦隊から配備された。これは最後の僅かな努力ではあったが、正しく機能した。ドイツの航空戦力は中央軍集団の全面的な崩壊を防ぐ事を防いだ。ソ連軍が最善を尽くしたにも関わらず、航空艦隊は中央軍集団の保持に多大な貢献をした。12月17日から22日の間に航空艦隊はトゥーラ周辺の299両の車両と23両の戦車を破壊し、赤軍の追撃を防いだ。 中央ではソ連の進攻はさらに遅かった。ソ連の部隊は10日間の戦闘の後、12月26日にナロ=フォミンスクを、28日にカルガを、1月2日にマロヤロスラヴェツを解放した。ソ連の予備兵力は不足しており、疲弊し凍りついたドイツ軍をモスクワから100kmから250kmほど押し返したところで、1942年1月7日に攻勢は停止した。スターリンはモスクワ前面の中央軍集団を捉えて殲滅するために更に攻勢を続けるよう命令したが、ソ連軍は疲弊しており、突出しすぎていたため、攻勢に失敗した。
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