ソ連軍の奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
詳細は「ソ連対日参戦」を参照 その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約(ヤルタ協約)を基に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(ソ連対日参戦)。当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線や日本本土に引き抜かれて弱体化していたため、急遽、在郷軍人や居留民から25万人を動員し、70万人の兵力と、戦車150輌、航空機150機、火砲1000門を揃えたが、兵士の多くが老兵で、また装備の充足率も低く、真の兵力はこの数分の1に過ぎなかった。一方、アレクサンドル・ヴァシレフスキー率いるソ連軍は、兵員1,577,725人と火砲・迫撃砲26,137門、戦車・自走砲5,556両、航空機3,446機と、関東軍を圧倒していた。奇襲を受けた関東軍であったが、兵力不足を補うため満州の2/3を放棄し、居留民150万人のうち110万人が居住する新京と大連間を走る「連京線」と新京から図們を走る「京図線」を結ぶ防衛線でソ連軍を食い止めるとする作戦計画に基づき、国境の要塞に配置された兵力を除き、主力は満州南部への撤退を開始した。
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