ソ連軍の攻勢とは? わかりやすく解説

ソ連軍の攻勢(1月末〜2月中旬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:56 UTC 版)

第三次ハリコフ攻防戦」の記事における「ソ連軍の攻勢(1月末〜2月中旬)」の解説

1943年初めソ連軍スターリングラードドイツ第6軍包囲し、さらにドン川へと攻勢をかけた事でドイツ軍戦線崩壊危機迎えていた。1943年2月2日第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥降伏、9にも及ぶ将兵ソ連軍捕虜となり第6軍壊滅したスターリングラードでの枢軸軍損害合計捕虜含め12から15にも及んだ1942年通してドイツ軍人的損害190万人近く出し1943年初めにドイツ軍東部戦線において軍の定員47万人下回る人数しか補充できなかった。バルバロッサ作戦開始時、ドイツ軍は3300両の戦車保有していたが、1月22日地点東部戦線の全戦線残っていたのはわずか495両だった。さらにこれらの戦車大半旧式のもので、しかも東部戦線全体分散していた。ソ連軍ドン方面軍スターリングラードドイツ軍撃滅した後、スタフカヴォロネジからロストフまで進軍しドイツA軍集団包囲する作戦発動した。一方北部では、デミャンスク東方形成されていたドイツ軍突出部・中部にあたるスモレンスク東方ドイツ軍攻撃加え3月中に奪還した1月29日ドニエプル川まで進出した南西方面軍がドイツドン軍集団A軍集団後方遮断してクリミア半島追い詰める事を目的とした「早駆け作戦」が発動された。続いて2月2日ソ連ヴォロネジ方面軍弱体化したドイツB軍集団攻勢をかけ、ハリコフ奪還を狙う「星作戦」を発動させた。ヴォロネジ方面軍第3戦車軍を、南西方面軍は第6軍臨時編成されマルキアン・ポポフ少将率いポポフ戦車軍を先鋒とし、南方面軍は5個軍を先頭にしてそれぞれの目標へと進撃していった。この行動目的ドイツ軍南方3個軍集団(A・B・ドン)の包囲殲滅であった。星作戦の結果ソ連軍ベルゴロドハリコフクルスク奪還し、さらにポポフ少将率いる4個戦車旅団先鋒となってドネツ川渡りドイツ軍背後取ろう進軍した2月6日ドン軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥総統大本営アドルフ・ヒトラー今後作戦構想において会談しドネツ地域ソ連軍引き入れて流動的な防御を行うことを主張した。それに対してヒトラーは、ドン川下流湾曲部沿うバルコニー突出部のドネツ地域全体何としても保持しなければならない主張してマンシュタイン主張認めなかった。 2月中旬戦況はさらに悪化しており、A軍集団カフカスから後退し、ホリト軍支隊南方軍集団2月11日ドン軍集団改称同月14日B軍集団吸収司令官マンシュタイン)の第4装甲軍突出部にあるミウス川以東地域から後退していた。2月9日にはソ連軍クルスクベルゴロド=ハリコフ北部ラインまで前進した2月15日、2個戦車旅団ドニプロ川下流のザポロジェに迫った。ザポロジェはクリミア方面への最後要衝であり、南方軍集団および第4航空艦隊司令部駐留していた。2月13日ヒトラーハリコフ死守命じたが、15日SS装甲軍団ハリコフから撤退しソ連軍によって16日奪還された。ヒトラー直ちマンシュタインがいるザポロジェに飛んだヒトラーとの会談で、マンシュタインハリコフへの即時反撃効果が無いが突出したソ連軍側面装甲部隊攻撃すればハリコフを再占領することはできると主張した2月19日ソ連軍戦車部隊ドイツ戦線破りザポロジェに接近した戦況悪化する中でヒトラーマンシュタイン作戦上のフリーハンド与えたヒトラーがザポロジェを離れた時、ソ連軍はザポロジェの飛行場まであと約30km地点まで迫っていた。2月19日時点で、南西方面軍はドニエプル川目前まで前進していた。 ソ連軍は星作戦次の作戦としてギャロップ作戦発動させた。この作戦ルガンスクイジューム奪還することでドイツ軍ドネツ川流域から追い出す事を目的とした。スタフカはこの作戦による南部戦線勝利大祖国戦争勝利することができると考えたドイツ第6軍降伏により、スターリングラード包囲していた6個軍がコンスタンチン・ロコソフスキーの元で再編成され、さらに第2戦車軍と第70軍によって強化された。これらの戦力ドイツ中央軍集団南方軍集団繋ぎ目であるハリコフ再配置され、ドンバス作戦用いられた。この作戦デスナ川渡りドイツ中央軍集団攻撃する事でオリョールにおける突出部のドイツ軍包囲殲滅する作戦であった。もともとは2月12日から15日の間に作戦開始される予定だったが、軍の展開が遅れたためスタフカ2月25日作戦延期したその間ソ連60軍はドイツ第2装甲軍の第4装甲師団クルスクから追い出そうとし、同時にドイツ第2装甲軍団をドイツ軍側面へと向かわせた。これらのロコソフスキー攻撃によりドイツ軍前線の間に60 kmほどの裂け目生じたソ連第14軍と第48軍は第2装甲軍右翼攻撃しわずかに前進した間、ロコソフスキー2月25日攻勢開始ドイツ軍戦線突破し突出部の南で第2装甲軍ドイツ第2軍の間を分断して包囲網形成しつつあった。しかしドイツ軍予想外抵抗によりこの作戦大幅に遅れ、ロコソフスキー中央左翼限定的な前進しか行えなかった。一方でソ連第2戦車軍団ドイツ軍後方を160km前進することに成功しそれに伴いソ連軍側面の距離は100 km増加した。 ソ連軍の攻勢は続いたが、マンシュタイン元帥は第3SS装甲擲弾兵師団によって強化されSS装甲軍団用いれば反撃できる判断した。しかし、ヒトラー補充完了していない7つ装甲師団および自動車化師団使用し認めなかった。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥指揮下の第4航空艦隊部隊再編成し出撃回数1月250回から2月には1000回に増加させ、ドイツ軍航空優勢確保した2月20日ソ連軍ザポロージャに対して無謀な進軍行い、これがドネツ戦役として知られるドイツの反撃狼煙となる。

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