ソ連軍の攻勢(1月末〜2月中旬)
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「第三次ハリコフ攻防戦」の記事における「ソ連軍の攻勢(1月末〜2月中旬)」の解説
1943年の初め、ソ連軍がスターリングラードでドイツ第6軍を包囲し、さらにドン川へと攻勢をかけた事でドイツ軍の戦線は崩壊の危機を迎えていた。1943年2月2日、第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥が降伏、9万にも及ぶ将兵がソ連軍の捕虜となり第6軍は壊滅した。スターリングラードでの枢軸軍の損害の合計は捕虜も含め、12万から15万にも及んだ。1942年を通してのドイツ軍は人的損害を190万人近く出し、1943年の初めにドイツ軍は東部戦線において軍の定員を47万人も下回る人数しか補充できなかった。バルバロッサ作戦開始時、ドイツ軍は3300両の戦車を保有していたが、1月22日地点で東部戦線の全戦線に残っていたのはわずか495両だった。さらにこれらの戦車は大半が旧式のもので、しかも東部戦線全体に分散していた。ソ連軍ドン方面軍がスターリングラードでドイツ軍を撃滅した後、スタフカはヴォロネジからロストフまで進軍しドイツA軍集団を包囲する作戦を発動した。一方北部では、デミャンスク東方に形成されていたドイツ軍突出部・中部にあたるスモレンスク東方のドイツ軍に攻撃を加え、3月中に奪還した。 1月29日、ドニエプル川まで進出した南西方面軍がドイツドン軍集団とA軍集団の後方を遮断してクリミア半島へ追い詰める事を目的とした「早駆け作戦」が発動された。続いて2月2日、ソ連ヴォロネジ方面軍が弱体化したドイツB軍集団に攻勢をかけ、ハリコフの奪還を狙う「星作戦」を発動させた。ヴォロネジ方面軍は第3戦車軍を、南西方面軍は第6軍と臨時に編成されたマルキアン・ポポフ少将率いるポポフ戦車軍を先鋒とし、南方面軍は5個軍を先頭にしてそれぞれの目標へと進撃していった。この行動の目的はドイツ軍南方3個軍集団(A・B・ドン)の包囲殲滅であった。星作戦の結果、ソ連軍はベルゴロド、ハリコフ、クルスクを奪還し、さらにポポフ少将率いる4個戦車旅団が先鋒となってドネツ川を渡り、ドイツ軍の背後を取ろうと進軍した。 2月6日、ドン軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥が総統大本営でアドルフ・ヒトラーと今後の作戦構想において会談し、ドネツ地域にソ連軍を引き入れて流動的な防御を行うことを主張した。それに対してヒトラーは、ドン川下流の湾曲部に沿う「バルコニー」突出部のドネツ地域全体は何としても保持しなければならないと主張して、マンシュタインの主張を認めなかった。 2月中旬、戦況はさらに悪化しており、A軍集団はカフカスから後退し、ホリト軍支隊と南方軍集団(2月11日ドン軍集団を改称、同月14日にB軍集団を吸収。司令官はマンシュタイン)の第4装甲軍は突出部にあるミウス川以東地域から後退していた。2月9日にはソ連軍はクルスク=ベルゴロド=ハリコフ北部のラインまで前進した。2月15日、2個戦車旅団がドニプロ川下流のザポロジェに迫った。ザポロジェはクリミア方面への最後の要衝であり、南方軍集団および第4航空艦隊司令部が駐留していた。2月13日、ヒトラーはハリコフ死守を命じたが、15日にSS装甲軍団がハリコフから撤退しソ連軍によって16日に奪還された。ヒトラーは直ちにマンシュタインがいるザポロジェに飛んだ。ヒトラーとの会談で、マンシュタインはハリコフへの即時反撃は効果が無いが突出したソ連軍の側面を装甲部隊で攻撃すればハリコフを再占領することはできると主張した。2月19日、ソ連軍戦車部隊はドイツの戦線を破りザポロジェに接近した。戦況が悪化する中でヒトラーはマンシュタインに作戦上のフリーハンドを与えた。ヒトラーがザポロジェを離れた時、ソ連軍はザポロジェの飛行場まであと約30kmの地点まで迫っていた。2月19日の時点で、南西方面軍はドニエプル川目前まで前進していた。 ソ連軍は星作戦の次の作戦としてギャロップ作戦を発動させた。この作戦はルガンスクとイジュームを奪還することでドイツ軍をドネツ川流域から追い出す事を目的とした。スタフカはこの作戦による南部戦線の勝利で大祖国戦争を勝利することができると考えた。 ドイツ第6軍の降伏により、スターリングラードを包囲していた6個軍がコンスタンチン・ロコソフスキーの元で再編成され、さらに第2戦車軍と第70軍によって強化された。これらの戦力はドイツ中央軍集団と南方軍集団の繋ぎ目であるハリコフに再配置され、ドンバス作戦に用いられた。この作戦はデスナ川を渡りドイツ中央軍集団を攻撃する事でオリョールにおける突出部のドイツ軍を包囲殲滅する作戦であった。もともとは2月12日から15日の間に作戦が開始される予定だったが、軍の展開が遅れたためスタフカは2月25日に作戦を延期した。その間にソ連第60軍はドイツ第2装甲軍の第4装甲師団をクルスクから追い出そうとし、同時にドイツ第2装甲軍団をドイツ軍の側面へと向かわせた。これらのロコソフスキーの攻撃によりドイツ軍の前線の間に60 kmほどの裂け目が生じた。ソ連第14軍と第48軍は第2装甲軍の右翼を攻撃し、わずかに前進した間、ロコソフスキーは2月25日に攻勢を開始、ドイツ軍の戦線を突破し突出部の南で第2装甲軍とドイツ第2軍の間を分断して包囲網を形成しつつあった。しかしドイツ軍の予想外の抵抗によりこの作戦は大幅に遅れ、ロコソフスキーは中央と左翼で限定的な前進しか行えなかった。一方でソ連第2戦車軍団はドイツ軍後方を160km前進することに成功し、それに伴いソ連軍の側面の距離は100 kmも増加した。 ソ連軍の攻勢は続いたが、マンシュタイン元帥は第3SS装甲擲弾兵師団によって強化されたSS装甲軍団を用いれば反撃できると判断した。しかし、ヒトラーは補充が完了していない7つの装甲師団および自動車化師団の使用しか認めなかった。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥指揮下の第4航空艦隊は部隊を再編成し、出撃回数を1月の250回から2月には1000回に増加させ、ドイツ軍の航空優勢を確保した。2月20日、ソ連軍はザポロージャに対して無謀な進軍を行い、これがドネツ戦役として知られるドイツの反撃の狼煙となる。
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