ドイツの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:05 UTC 版)
「リチャード・オコーナー」の記事における「ドイツの反撃」の解説
しかし、戦略的意味として見たときのコンパス作戦は完全な勝利では無かった。イタリアは依然としてリビアの大部分を支配し、これを対処する軍事力を保有していた。北アフリカにおける枢軸国の足掛かりは、この状況が続く限り潜在的脅威としてエジプトとスエズ運河に残ると思われた。この点を理解していたオコーナーはウェーヴェルに対し、イタリアへとどめを刺すためにトリポリ制圧の許可を促している。ウェーヴェルは当時キレナイカ軍政府総督だった ヘンリー・メイトランド・ウィルソン(英語版)中将と合意し、第13軍団は進軍を再開した。しかし、オコーナーの新たな攻勢は短期間で終わることとなった。彼の軍団がベダ・フォムの南西に位置するエル・アゲイラ(英語版)に到着したとき、ウィンストン・チャーチル首相がその進軍の中止を命じたからである。ちょうどこの頃、枢軸国がギリシャで戦闘を繰り広げており、ウェーヴェルはこれに反抗するため出来る限り速やかに実働可能なすべての軍を送るよう命じられた。彼は第6オーストラリア師団を第7機甲師団の一部や大部分の補給、航空支援とともに引き抜いたが、これが最終的に作戦を運命付けることとなった。第13軍団の司令官を離職したオコーナーは、1941年2月にエジプト駐留軍司令部(英語版)最高司令官に任じられた。 間もなく、イギリスにとってさらに悪い状況へ陥ることになる。1941年3月までに、ヒトラーはリビアのイタリア軍を支援するためエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団を送り込んできた。ウェーヴェルとオコーナーは、狡猾で機知に富み、大胆不敵にして「砂漠のキツネ」とあだ名された指揮官のもとにある強敵と直面した。ロンメルはやや時間を置き、3月31日から攻勢を開始した。経験の浅い第2機甲師団(英語版)は完膚なきまで打ち負かされた。4月2日、ウェーヴェルは当時キレナイカのイギリス本国と英連邦軍司令官を務めていたフィリップ・ニーム(英語版)中将(ウィルソンは連合軍のギリシャ遠征軍司令官に異動している)と問題の検討を行った。連絡を受けたオコーナーは翌日カイロより至ったが、一般的事情へ精通していないとしてニームの指揮を拒否している。しかし、彼から助言を得ることには同意した。 4月6日、オコーナーとニームはマラウアからティミミ(英語版)に後退した最高司令部へ向かっていたが、その最中マルツバ付近でドイツの捕虜となった。
※この「ドイツの反撃」の解説は、「リチャード・オコーナー」の解説の一部です。
「ドイツの反撃」を含む「リチャード・オコーナー」の記事については、「リチャード・オコーナー」の概要を参照ください。
ドイツの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 05:09 UTC 版)
「イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」の記事における「ドイツの反撃」の解説
9月12日から9月14日にかけて、ドイツ軍は自動車化された6個師団の一部による反撃を開始した。目的は、サレルノの海岸堡を占領し、イギリス第8軍と合流する前に上陸部隊を海に追い落とすことであった。アメリカ軍は集中した攻撃に対するには防衛線は薄すぎ、反撃は大損害を起こした。第36歩兵師団の第143歩兵連隊第2歩兵大隊はドイツ軍装甲部隊にさらされ、全滅した。 左翼の第6軍団で、アメリカ第45歩兵師団が上陸し、第10軍に割り当てられた地域を確保しようと前進した。ドイツ軍の装甲部隊は反撃によりかなりの土地を取り返した。9月13日に、第45歩兵師団の右翼は、セレ川とカロレ・ルカノ川の交わる点で2つのアメリカ軍の師団の間の突出部を破られてしまった。ドイツ軍の装甲部隊の攻撃は、海岸堡の補給物資集積所から4マイルの地点で、砲兵と艦砲射撃、そして砲兵部隊により構成された間に合わせの歩兵部隊により止められた。 両師団の前線の部隊は、T・ラ・カソ川の後方に下がり、防衛線の長さを短くした。新しい境界線の近傍は第82空挺降下師団の支援を受けて防衛された。第504パラシュート歩兵連隊の2個大隊(1800人)は、9月13日の夜に海岸堡に下がった後、第6軍の右の防衛線に速やかに移動した。翌日の夜、危機は去り、第505パラシュート歩兵連隊が第504連隊の補充として、海岸堡に空挺降下を行った。第504連隊の第3大隊で増強された、第325グライダー歩兵連隊は9月15日に上陸した。 強力な艦砲射撃の支援と、第5軍砲兵による支援により、補充を受け再編成された歩兵部隊は9月14日の防衛線の弱点を攻略しようとするドイツ軍の全ての攻撃を防ぎきった。ドイツ軍の損害は、酷く、特に戦車の損害は大きかった。9月15日もドイツ軍の試みは続いたが、翌9月16日には、連合国軍は強力で、突破するのは難しいことが分かり、フォン・フィーティングホフは、遅延工作を行いながら、第10軍を北に撤退させるように命令した。9月17日に、連合国軍の両方の軍団の地域の偵察部隊は、海岸堡のあちこちにおいて、ドイツ軍との交戦状態が解消されていることが分かり、翌9月18日に全ての目標を再確保した後、第5軍は北へ進軍を開始した。 マーク・W・クラーク大将は、この戦闘における前線指揮によって、2番目に高位な章である殊勲十字章を受けた。実際、彼は頻繁に戦闘中の部隊のある前線に姿を現していた。しかし、歴史家カルロ・D・エステの意見では、クラークの作戦指揮のまずさがこの危機を起こしたと言われている。クラーク自信は海岸堡における危機に対して、第8軍の対応の遅さを非難していた。この意見はいくらかの正当性があった。上陸した9月9日にモントゴメリーは第8軍に休養を与えるため2日間前進を止めていたからである。 サレルノの戦いはイギリス第10軍団の600人によるサレルノの反乱が生じた場所でもある。彼らは、9月16日に補充部隊として新しい部隊への配属を拒否したのだった。彼らは、負傷のため北アフリカ戦線において戦っていた元の部隊に復帰するものと信じていた者たちであった。最終的に軍団の指揮官であるマククリーリーはその命令に従うように説得を行った。反乱を指揮した下士官は死刑を宣告されたが、実際のところ、部隊は再統合され、判決は実行されなかった。
※この「ドイツの反撃」の解説は、「イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」の解説の一部です。
「ドイツの反撃」を含む「イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」の記事については、「イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」の概要を参照ください。
- ドイツの反撃のページへのリンク