1944年の他方面戦況との比較
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「大陸打通作戦」の記事における「1944年の他方面戦況との比較」の解説
イタリアは1943年9月に枢軸国から脱落したものの、日本とドイツは依然として強力な軍隊を保持しており、この2ヶ国を無条件降伏させるのは未だ簡単なことではなかった。西部戦線ではアメリカ・イギリスが6月のノルマンディー上陸作戦でフランスを解放し、さらに12月のバルジの戦いでもドイツの反撃を抑えた。イタリア戦線では6月にローマが連合国軍の手に落ちていた。独ソ戦でもソ連が反攻に転じて勝利を収め、開戦前の領土を回復しドイツ領内に侵攻した(バグラチオン作戦、6月22日 - 8月19日)。8月から9月にかけてはルーマニア、ブルガリア、フィンランドが枢軸国から脱落した。ドイツ国内では7月20日事件が発生した。 アジア太平洋戦線においては、1943年夏頃までは日本軍と連合国軍が一進一退を続けていたが、その後ビルマ方面でインパール作戦以降イギリスが日本に勝利し、マリアナ・パラオ諸島の戦いやフィリピンの戦い (1944-1945年)ではアメリカが勝利を重ねていた。つまり、1944年にはヨーロッパでもアジア太平洋でも他の連合国軍が勝ち進んでいる中で、中国だけが大陸打通作戦で惨敗しており、連合国の中で戦局は最も悲惨であった。中国を強く信頼していたルーズベルトに対し、チャーチルは中国の戦闘能力の低さを、スターリンは中国の戦争貢献の少なさを指摘している。 ビルマ戦線では、スティルウェルの指揮のもと再建された中国軍がミートキーナの戦いや拉孟・騰越の戦いで日本軍に勝利を収めたが、それらの部隊が中国本土に転戦するのは日本軍の敗色が濃くなった1945年になってからである。 本作戦は、枢軸国の敗色が濃厚となる中で数少ない枢軸国側の一方的勝利である。この期間、日本大本営発表とそれに伴うマスコミの報道は中国戦線での勝利の発表で埋め尽くされた。1944年9月の大本営発表では、内容の約7割が中国大陸戦線の動向の発表だった。
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