中国戦線
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「第4師団 (日本軍)」の記事における「中国戦線」の解説
1937年(昭和12年)2月、師団は満州に駐屯し、まもなく盧溝橋事件が勃発。支那事変(日中戦争)では北支や満蒙を転戦した。この間の1939年(昭和14年)3月1日、枚方市の禁野火薬庫で大爆発が発生した際には歩兵一個大隊、工兵一個中隊、救護班四班を急派して消火、救援活動が行われている。1940年(昭和15年)7月には中支に派遣され、漢水作戦、予南作戦、江北作戦等に参加。1941年(昭和16年)9月には、第一次長沙作戦に従事。 この後、師団は大本営直轄となり、来るべき南方作戦に備えて部隊の集結と再編成を行った(編制を4単位制師団から、3単位制に移行。篠山の歩兵第70連隊は第25師団に編入された)。
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中国戦線
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「鈴木實 (海軍軍人)」の記事における「中国戦線」の解説
1937年の日中戦争(支那事変)勃発後、一航戦は主に陸戦協力にあたっていた。同年8月22日、龍驤より兼子正指揮の4機が宝山上空でカーチス・ホークⅢ(英語版)18機中6機を撃墜し、その翌23日、宝山上空で同じく龍驤より鈴木指揮の4機が哨戒中、カーチスホーク・ボーイングP-26混成27機編隊を発見、鈴木らは無傷で相手9機、鈴木はうち3機撃墜の戦果をあげた。第三艦隊司令長官の長谷川清中将より個人感状を授与され、また支那事変における論功行賞では、「殊勲甲の特」とされて功四級金鵄章を授与され、同時にハンモックナンバーが80番台から10番台に急上昇し、のちの少佐進級では60期の先頭組に入った。 1938年6月、海軍大尉に進級。佐伯空、大分空、鹿島空各分隊長を経て、1941年4月10日、第十二航空隊先任分隊長。同時期、12空には兼子正も所属。この頃、中国空軍は蘭州にて再建を図っていたため、十二空も山西省・運城飛行場(第15基地)に進出した。 同年5月20日以降、第5大隊のI-153 18機(うち1機は第4大隊)ほか軽爆撃機を陝西省の南鄭飛行場や近隣の成県飛行場・天水飛行場に避退させているとの情報を受け、24日、第1戦闘機隊の零戦9機(長:佐藤正夫大尉)、艦攻9機(長:駒形進也大尉)、天偵・誘偵(九八式陸上偵察機)各1機からなる南方隊、鈴木率いる第2戦闘機隊の零戦11機と誘偵2機からなる北方隊が組まれ、それぞれ南鄭飛行場、成県飛行場・天水飛行場の攻撃を命じられる。5月26日11:00、第2戦闘機隊は運城飛行場を発した。一方、南方隊の南鄭接近の報を受けた空軍第3路司令・張有谷は第5大隊を南鄭から天水飛行場に移動させた。鈴木ら北方隊が天水飛行場に到着すると第5大隊はまだ来ておらず、それを空中に避退していたと思いしばらく待ったが来ないため、諦めて引き返していたところで第5大隊と遭遇、本隊から分離した第3小隊の中瀬正幸一空曹、中仮屋国盛三空曹が鹽関上空にて計5機を撃墜した(中国側の記録では第5大隊副大隊長余平想機・分隊長張森義機の2機)。その後、成県飛行場へ向かったが視界不良のため飛行場を発見できず、念のため天水飛行場の上空に戻ってみたところ、給油中のI-153 17機とSB1機(中国側の記録ではI-153 16機)を発見、銃撃で全機破壊した。この出来事は「23機の中国軍機を撃墜」と大きく報じられ、8月12日、支那方面艦隊司令長官の嶋田繁太郎大将より二度目の個人感状を授与された。同年10月3日、第12回支那事変生存者論功行賞にて陸攻隊の入佐俊家少佐、和田鉄二郎少佐、戦闘機隊の兼子正大尉らと優賞者に叙せられる。 まもなくして、着陸時の飛行機事故で頚椎損傷の生死をさまよう重傷を負い、首も左に回らなくなった。また、マヒの後遺症は晩年まで残った。
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